長崎県の西方に浮かぶ五島列島は、ユネスコの世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」で知られているが、その関連取材(こちらの記事を参照)で五島を訪れた私は、もう一つの目的地、弘法大師こと空海にゆかりのある「大寳寺(大宝寺)」へと足を運んだ。

その昔、仏教を勉強するため遣唐使に随行する形で唐へと渡った空海。ここ五島列島は、702年から838年の航路に使用されていた南路ルートの最後の寄港地だった。下五島に位置する福江島が主ではあるが、久賀島の田ノ浦にもその記録は残されており、716年の寄港記録は、久賀島を歴史に登場させる最初のきっかけにもなっている。

Daihoji Temple in Fukue Island, Nagasaki

804年に空海が乗船した遣唐使船・第一船の寄港地も、久賀島の田ノ浦や福江島の岐宿町白石など諸説あるが、ここらで最後の準備をしながら風を待ったという。また空海は、806年の帰朝時にも、暴風雨の影響から福江島の玉之浦町大宝に漂着。この地にある「大寳寺(大宝寺)」が「西の高野山」と呼ばれるのは、ここで最初に真言密教が開かれたからである。ちなみに、空海と同じ804年に第二船で唐へと渡った最澄は、805年に対馬経由で帰国している。

目の前に海が広がる島の南西端に位置し、日本最古の大般若経や室町時代の涅槃図、県文化財に指定される梵鐘、日本三大秘仏の聖観音像など、貴重な資料が残されている大寳寺。701年創建と五島にある寺院の中では最も古く、真言宗に改宗する前は三論宗のお寺だった。1369年と銘ある五十層の石塔(通称:へそ神様)や、江戸時代初期に活躍した彫刻職人・左甚五郎が彫ったとされる猿の彫刻もあり、奥の院含めて見応え十分である。

Myojoin Temple in Fukue Island, Nagasaki

福江島にはもう一つ、空海とゆかりのある寺が存在する。福江空港の近くに広がる田園地帯にひっそり佇む「明星院」は、五島における真言宗の総本山といわれているが、当時この場所に「虚空蔵菩薩」が安置されていることを耳にした空海は、唐で修行したことが日本の済世利民になるよう、本堂にこもって真言を唱えたという。

そして、満願の日の夜も明けきらぬ暗闇の中に一条の光が差し込んできたことから、この光が虚空蔵菩薩を象徴する明けの明星と考えた空海は、仏の知らせともとれるその瑞兆を心から喜んだという。このような経緯から、空海はこの寺を「明星庵(のちに明星院と改名)」と呼ぶようになった。

インド仏教の影響も見られる明星院は、本堂入り口の上部の飾り彫りが象であることも特徴の一つ。御堂の格天井には、狩野派・大坪玄能による花鳥画を中心に121枚の仏教画が描かれており、その四隅には、天界随一の美声をもつ迦陵頻伽が配置されている。この手法は、迦陵頻伽と中央に位置する龍を合わせて極楽浄土を表現しているというが、この空間に足を踏み入れると、虚空蔵菩薩に智慧を説かれているかのような厳かな空気とその叡智の美しさに圧倒される。

また、国の重要文化財に指定される銅像如来立像は、飛鳥から奈良の時代に作られた薬師如来と考えられているが、現在、この仏像は秘仏となっており、残念だが目にすることはできない。ただ、この時代の仏像が、遣唐使船最後の寄港地だった福江島にあることに意味がある。前述した大寳寺とともに五島で最古の歴史をもつ明星院は、私たちにその歴史的意義の大きさを教えてくれる。

Fukue Island in Nagasaki

空海は、仏教の勉学に励んだ唐での2年間で、真言密教以外に古代キリスト教の一つ、ネストリウス派の景教についても学んできたといわれている。空海が開いた真言密教が景教と関係あることは、総本山である高野山もどうやら認めているようだが、これには唐へ渡る以前から接点のあった秦氏の影響もあると考えられる。そして、のちの宣教師ザビエルは、日本における布教の難しさをここに感じ取ったのではないだろうか。

私自身はどの信仰も持っていないが、教会に関してはかれこれ20年以上、不思議な縁を感じてきた。そのため、日本と景教の関係を知ったときの喜びといったら⋯⋯。あの日はようやくスタート地点に立てた気がして、本当に感慨深かった。とはいえ、まだまだ知らないことも多いので、今後いろいろと考えが覆ることもあるだろう。今回の五島列島における空海の足跡もそうだが、歴史はすべてつながっている。このような場面にまた遭遇できることを、今後も楽しみにしている。