日本、中国、オランダの、和華蘭が融合された文化で知られる長崎。貿易により古くから栄えてきた都市には、街の景観だけでなく、他とは異なる独特な雰囲気を醸し出す場所が多い。それは、その時代からこれまで受け継がれてきた血筋がそうさせるのか、それともただ単に名残からくるものなのか⋯⋯。ここ出島や対馬、薩摩など、限られた場所だけが外交の窓口として開かれていた鎖国の時代、ここに住む人々にとってそれは、どのような感覚だったのだろう。

長崎の中心に到着して、まず私が最初に抱いたこの地の印象は「悲しい」だった。現在のコロナ禍により、観光客がほとんどいないというのも一つの理由だが、それだけではない別の空気を感じる。それは、先の戦争(こちらの記事を参照)のことを指しているのではなく、ここに住む人間たちの遠い過去を見るようだった。長崎に刻まれてきた歴史は深い。その一つひとつが今また、よみがえっているかのようだった。

View of Nagasaki
View of Nagasaki

その最初に抱いた印象は、街を歩くことによって徐々に変化した。私は、開国に伴い幕末から明治にかけて建てられた外国人居留地の「東山手・南山手地区」から見ていくことにした。「オランダ坂」をはじめとする坂道には、「東山手十二番館」や「東山手甲十三番館」などの洋館が残されており、南山手にある「旧グラバー住宅」や「旧リンガー住宅」、海岸通りに建つ「旧香港上海銀行長崎支店」などと共に、そのいくつかは国の重要文化財に指定されている。

Oura Catholic Church in Nagasaki

また、すぐ近くに建つ「大浦天主堂」は、キリスト教の歴史において奇跡と称された「信徒発見」の舞台。潜伏キリシタン(こちらの記事を参照)を語る上で欠かせない、世界から見ても重要な建物だ。豊臣秀吉による禁教令により、1597年に殉教した「日本二十六聖人」に捧げられた教会で、国内に現存する最古の教会堂として国宝にも指定されている。

この大浦天主堂と妙行寺、大浦諏訪神社の教会と寺、神社が接する「祈りの三角ゾーン」もこの土地ならではの光景だ。しかも開国から間もない1859年の妙行寺は、英国領事館の仮住まいにも提供されており、当時ここには、ユニオンジャックの国旗がはためいていたというのだから面白い。貿易商や船員、宣教師など、さまざまな国の人々が暮らしていた外国人居留地。「祈念坂」をのぼり後ろを振り返ると、彼らも眺めてきたであろう美しい港の景色が広がっている。

View of Nagasaki
Kofukuji Temple in Nagasaki

ここ長崎において、和華蘭の華である中国との関係も忘れてはならない。東山手と南山手の間にある「長崎孔子廟」や、新地にある「中華街」はまさにその空気を感じられる場所だが、それよりも見ておきたいのが、館内町界隈の「唐人屋敷跡」や「唐寺」である。鎖国の時代に、密貿易を制限するため中国人を収容し、貿易の窓口にもなっていた唐人屋敷。1784年の大火でほぼ全焼したため、興福寺に移築された「旧唐人屋敷門」は、用材や建築様式から、大火後に建てられた住宅門ではないかと言われている。

時を同じくして、キリスト教への弾圧が激しさを増していた長崎。寺町や鍛冶屋町など、風頭山の麓エリアには多くの仏教寺院が建立されたが、寺請制度により、在住する多くの中国人たちも仏教徒であることを証明する必要があった。キリシタンの疑いをかけられまいと次々に唐寺が建てられ、今や「崇福寺」に関しては、第一峰門や大雄宝殿が国宝にまで指定されている。出島のオランダ人にくらべ、割と出入りの自由が許されていた中国人。鎖国中であっても、長崎の人々との交流は続いていたそうだ。

View of Nagasaki

長崎の街は奥深い。今回は紹介していないが、聖福寺や福済寺、諏訪神社の周辺も趣がある。そして、この坂の街の魅力を存分に感じられる場所が長崎港だ。港の三方を山が囲み、斜面に張り付くように建てられた住宅の光景は、真っ先にイタリアを思いださせてくれる。よく日本のヨーロッパという表現が各地で使われるが、私の経験上、本当にそう感じられたのは今のところここだけである。

ところで、私が最初に抱いた長崎の印象「悲しい」がどう変わっていったのかというと、風が通る気持ちの良い墓地や遺跡で感じるような、先祖に「見守られている」という感覚が近いだろうか。ところどころに悲しみは残っているけれど、街全体がそこにいる人を静かに見つめているような、歩いているとそんな気持ちに変わっていった。