Hidden Christians in Nagasaki
August 19, 2021
Goto Islands, Nagasaki
長崎県五島列島。大小あわせて152からなるこの島は、潜伏キリシタンの多くが迫害から逃れ、移り住んだ場所として知られている。2016年に遠藤周作の小説『沈黙』を原作に、マーティン・スコセッシ監督により映画化(タイトル『沈黙 -サイレンス-』)、2018年には「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として世界遺産に登録されたため、多くの人が何かしらの形で触れてきたことだろう。
私がはじめてこの場所に興味を抱いたのは、今から15年ほど前になるだろうか。文化庁が世界遺産の暫定リスト入りを決める少し前のことだったと思う。当時、教会について調べていた私は、日本にもこんな場所があったのかと興奮したことを覚えている。あれからずっと、行きたい行きたいと言いながら月日が流れてしまったが、この美しい教会群が刻んできた深い歴史をこの間に学ぶことができた。旅はご縁である。ようやく私にも、五島の主から招待状が届いたようだ。
DAY. 0 長崎県本土・外海地方へ
長崎空港から港近くのホテルに移動し、まずはしばらく滞在することにした。今はコロナ禍、万が一のことを考え島に渡るには少し時間を置いてからのほうがよいだろう。ホテルにこもっていくつか仕事を片付けたのち、潜伏キリシタンと縁の深い大浦や浦上、外海地方を先に見ておくことにした。
外海地方は、潜伏キリシタンの多くが五島に移る前に住んでいた場所。映画『沈黙 -サイレンス-』に出てくる架空の村「トモギ村」も、ここ外海をモデルに描かれている。ただ、この地で有名な「出津教会堂」「大野教会堂」「黒崎教会」が建てられたのは、フランス人宣教師のド・ロ神父が赴任してきた1879年以降のことで、禁教の高札が撤廃された1873年よりも後のことである。
出津や黒崎など、外海にある集落で布教活動を行なっていたド・ロ神父は、信仰解禁後も貧しい生活を強いられる人々を助けるため、私財を投じて「出津教会堂」や「旧出津救助院」を建立したという。織布や編み物だけでなく、パンや素麺などの製造、建築、医療、印刷、養蚕業など、フランスで培ったありとあらゆる知識や技術を惜しみなく伝授し多くの雇用を創出。女性の自立支援にも力を入れていた。
また、教会の建設には設計から携わっており、この地の強い海風を考慮した平家建や、大野教会堂の引き戸扉など、日本の伝統文化をも取り入れた建築様式は見に行くだけで価値がある。外海地区以外では、大浦天主堂の敷地内にある「旧羅典神学校」もド・ロ神父によるもの。このような歴史的建造物は、すべて国の重要文化財に登録されている。
ここ外海地区で、禁教時代の潜伏キリシタンの歴史を感じるには「バスチャン屋敷跡」や「枯松神社(祈りの岩)」に足を運ぶと良いだろう。バスチャン屋敷跡は、日本人伝道師のバスチャンが隠れていた場所の一つ。日本から宣教師が追放された時期に、五島や外海、浦上のキリシタンに信仰を継承していった人物で、この地区にとって彼の存在はとても大きい。
枯松神社は、バスチャンの師であるサン・ジワン神父(来日は1609年と思われる)が祀られている神社で、参道にある「祈りの岩」は、黒崎集落のキリシタンが禁教時代にオラショを伝承した場所といわれている。外海では悲しみ節の46日間に限りオラショの口伝が許されていたため、毎年この寒い時期の夜にこっそり岩陰に隠れて伝習していったという。映画『沈黙 -サイレンス-』の中で、ロドリゴ神父とガルぺ神父が隠れていた炭小屋とは異なるが、これらはそのイメージと十分に重ねることができる。ちなみに沈黙は、島原の乱が収束して間もない頃の時代を描いている。前述したド・ロ神父が活躍した時代とは200年以上の差があることを覚えておきたい。
キリスト教の歴史の中でも世界的に重要とされる出来事の一つが、長崎の外国人居留区(こちらの記事を参照)にある大浦天主堂で「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」「サンタマリアの御像はどこ?」と、浦上から来たキリシタンにプチジャン神父が囁かれた「信徒発見」である。約250年ぶりに信徒が信仰を表白した1865年の出来事だが、これは日本人伝道師バスチャンが残した伝承の一つ、「七代耐え忍べば、再びローマからパードレ(司祭)がやってくる」という言い伝えをずっと信じてきた、信徒がつなげた出来事でもある。
ただ、これをきっかけに信仰を明らかにする信徒が増え、長く苦しい禁教時代の最後のキリシタン迫害が行われていく。それが、明治最初期の1867年に起きた「浦上四番崩れ」とそれに続く「五島崩れ」。仏教への改宗を目的に、浦上村と五島に住む潜伏キリシタンたちが恐ろしい拷問にあっていく事件だ。この事件の背景と言葉にできないほどに残酷すぎる拷問の実態は、森禮子による小説『五島崩れ』を読むことをおすすめする。
DAY. 1~3 福江島、久賀島、奈留島へ
五島列島にある島々は、一番面積が広く人口も多い福江島を中心とする下五島、次に大きい中通島を中心とする上五島の2つに大きく分かれている。福江島へは飛行機も就航しているが、やはりここは船で向かいたい。私は高速船のジェットフォイルではなく、大型船のフェリーに揺られながらこの島を目指した。ここ数日、海が荒れていたので心配だったがこの日は快晴。デッキで風を浴びながらの船旅である。
福江港には、4時間後の日暮れ前に到着した。港近くのホテルにチェックインし、福江城など島の中心部を一通り見たあとでスーパーへ向かう。コロナ禍でなければ一杯飲みに出かけたいのが本音だが、医療体制に限りがある島に迷惑だけはかけられない。すでに福江島でも感染者が確認されている状況。用心できることはすべて用心し、自分が罹らないよう人一倍気をつけなくてはならない。
翌日の朝、まず向かった先は久賀島。福江港から田ノ浦港は、シーガル号で20分の距離にある。島にあるレンタカー会社で電気自動車を借り、その足で五輪漁港へと向かう。緑豊かな自然に囲まれた久賀島はとてものどかだ。県道167号線を右折し、軽自動車一台通れるほどの細い山道を慎重に進んでいくと、数台の車を駐車できるスペースにたどり着く。ここからは徒歩での移動。少しばかり道をくだると、青く美しい浜辺が目に飛び込んできた。
ここ五輪漁港には、「五輪教会」と「旧五輪教会堂」の新旧2つの教会が並んでいる。今はもう使われていない旧五輪教会堂は、田ノ浦港の近くに位置する「浜脇教会」の旧教会堂がそのまま移築されたもので、ポインテッドアーチ型の引き分け窓と、リブ・ヴォールト天井がみごとな瓦葺きの木造建築だ。日本に現存する教会の中では大浦天主堂の次に古いため、当時、久賀島の船大工数人が大浦天主堂に出向き、見よう見まねで造ったのではないかといわれている。
久賀島には、もう一つ忘れてはならない場所がある。五島崩れで200名余りもの信徒が押し込められた「牢屋の窄殉教事件」の跡地である。身動きすらできないわずか12畳の牢獄で、足を床につけることもできないような8か月。それはそれは悲惨で残酷で、腐乱した死体がその場に放置されてウジが湧くような環境だった。殉教した42名の中には、まだ小さな子供たちもいた。当時10歳だったマリアたきは熱病で髪が抜け落ち、「うちはパライソに上ります」とかすかな声で云いながら息を引き取ったという。
次の日は、フェリーに乗り奈留島へと向かった。奈留島には「江上天主堂」があり、この集落一帯は世界遺産に登録されている。森の中にひっそりと佇む江上天主堂は、クリーム色の板張り壁と水色の窓枠、内部のガラスに描かれた花の絵がなんとも愛らしい。柱の木目も手で描かれており、リブ・ヴォールト天井ともに中は重厚感がある。
台風の影響を受けながらも、周辺の木々に守られながら100年以上も耐え抜いてきたこの教会は、近くを流れる小川の湿度を考慮した高床式を採用。風通しが良くなるよう、花十字にくり抜かれた装飾を軒下に配置している。さらには、教会裏の屋根下にある十字架が光で壁に映し出されるなど、ここには至る所にあらゆる工夫が施されており、信徒たちの努力に頭が下がる。
潜伏キリシタンの禁教時代における歴史は長い。『沈黙 -サイレンス-』のなかでもロドリゴ神父が二度、五島に渡るシーンがあるが、当時の五島のキリシタンは、そのほとんどが禁教令により一度衰退している。今、五島に存在する潜伏キリシタンの痕跡は、人口減少に困っていた五島藩が、産児制限政策に頭を抱えていた大村藩に1797年に依頼し、大村藩領の外海に住む潜伏キリシタンを開拓民として迎え入れたことがきっかけだ。
当時の五島は、キリシタンに対する取り締まりが大村ほど厳しくなかったため、外海のキリシタンにとっても移住は希望だった。だが実際は、漁業や耕作に適した土地に先住の仏教徒たちが住んでいたので、奥まった山間部や小舟でしかアクセスできないような小さな入り江に少しずつ散らばり、信仰を隠しながら集落を形成するしかなかったのだ。
午後は、両日とも福江に戻り、車を借りて島をまわった。4月の五島はまだ肌寒く、時折降る霧雨がこの島の歴史を物語る。福江島には嵯峨島を含めて14のカトリック教会が存在するが、今ある教会は禁教令が廃止されたあとに建てられたもの。その教会がある場所=潜伏キリシタンが住んでいた集落なのだが、そのいくつかは「この道を行くの?」というような辺鄙な場所に建てられており、霧に包まれた暗く鬱蒼とした森の中を、長い時間走らなければたどり着けないような教会もあった。
つまりは、現在こそ細い道でアクセスできるようになってはいるものの、当時は車道などなく、道なき道を歩くしか手段がなかったということだ。そうしたことを想像しながら一つひとつの集落に足を運ぶことで、潜伏キリシタンがいかに過酷な環境で暮らしていたのか思い知らされる。ただでさえ大変な農民の暮らしに、追い討ちをかけるように悲劇を与え続けられる禁教時代。映画の中でキチジローが発する「迫害なんかない世の中に生まれていたら、立派なキリシタンになれたのに」という言葉がよみがえる。今こうして、少しでもあの時代を垣間見ることができるのは非常に感慨深い。
そうしたことを踏まえて、福江島で特に印象深かった教会は「宮原教会」「繁敷教会」「半泊教会」の3つだろう。特に前2つに関しては、建物とはいえ息をひそめてそっと隠れているという表現が正しいように思う。見た目も教会というよりは民家でとても質素だ。半泊教会に関しては、到着までの道のりこそ大変だったものの、周辺の開けた空気感が他とは真逆でびっくりした。そういった意味では、島の西部に位置する「貝津教会」「玉之浦教会」もとても安らぐ場所で、印象に残っている。
久賀島の旧五輪教会堂もそうだが、五島列島の浜辺に面する教会では、ミサが始まる時刻をホラ貝で知らせていたという。鐘の代わりにその音色を聴き、小舟に揺られて信徒が集合していたのだ。ホラ貝が密教の法具であることはさておき、このエピソードは潜伏キリシタンに届く唯一の光のように感じた。禁教令が廃止されたあとの話とはいえ、彼らへの差別感情はそう簡単にはなくならず、生活自体も楽にはならなかったからだ。そのホラ貝は、福江島にある赤レンガ造りの「堂崎教会」に展示されており、そのほかの資料ともに見応えがあるのでぜひ足を運んでいただきたい。
DAY. 4~5 中通島、若松島へ
下五島を見終えたあとは、高速船のジェットフォイルで上五島へと向かった。五島の中で2番目に大きい中通島と橋でつながる若松島にも、潜伏キリシタンに関連する29の教会群が存在するが、ここには絶対に外すことのできない場所が2つある。その一つが世界遺産にもなっている頭ヶ島集落の「頭ヶ島天主堂」、そしてもう一つが、瀬渡し船でしか行くことのできない「キリシタン洞窟」である。
キリシタン洞窟は、若松島の里ノ浦地区に住んでいたキリシタン三家族が、五島崩れが起きた際に身を隠していた洞窟。船でしかたどり着けず、海岸から入り口が見えなかったため4か月ほど身を隠すことができたが、ある日の朝、炊事中の煙が漁船に見つかり通報されてしまう。この洞窟に建てられた十字架とキリスト像は、彼ら三家族や、苦しい拷問に耐えながらも信仰を守り続けた先人たちを偲ぶために捧げられたもの。また、すぐ近くにある「ハリノメンド」は、荒波の侵食により自然に形成された穴の形が幼きイエスを抱くマリア像の姿に似ているといわれている。
禁教時代のキリシタン迫害と聞くと、豊臣秀吉による「バテレン追放令」や「二十六聖人の殉教」を思い浮かべる人も多いのではないかと思う。だが秀吉は禁教ではなく布教を禁止しただけで、実際に「サン=フェリペ号事件」が起こるまでは、自身も信徒になっていいと口に出すほどカトリックに寛容だった。二十六聖人に関しては酷い事件で許されることではないが、この事件もあくまで見せしめで、彼は立場上、日本という国を守ったに過ぎない。ただ、家康を除いて江戸幕府がしたこと、特に家光の時代から幕末、そして明治初期にかけて長崎で行われてきたことは、本来の趣旨からあまりにずれているように思う。
『沈黙 -サイレンス-(こちらの記事も参照)』にも描かれている、雲仙地獄での熱湯や穴吊りの拷問からもわかるように、彼らの目的は棄教だけではない。強制的に仏教徒へ改宗させるため、死ぎりぎりの苦しみを与え続け、障害が残ろうがどうなろうが命をわざと長引かせていたのだ。このような苛烈な行為は人間のすることではない。彼らは、キリシタンが豊臣の残党と結びつくことも危惧していた。カトリック信徒の増加によってスペインやポルトガルから侵略される懸念とは別のところでも、己の権力を失うことを一番に恐れていたのではないだろうか。もちろん、あの時代をそんな容易に語れないことは周知の事実だ。ただ、島原の乱が起きた原因やその前後の流れを考えたとき、特に家光の時代に関してはそう思わざるを得ない。
話を上五島に戻そう。中通島の東に位置する頭ヶ島は、外海からの開拓民により一軒を除いた全員がキリシタンだった島。病人の療養地でもあった頭ヶ島には人が近づかなかったので、潜伏キリシタンにとっては格好の移住先だったのだ。五島崩れが起きた際には信徒たちが牢に閉じ込められたが、なんとここでは島民全員が脱出に成功したという。
この地にある「頭ヶ島天主堂」は、多くの教会を手がけてきた建築家・鉄川与助により設計・施工された石造りの教会で、完成までには約10年もの歳月を要したとのこと。粗い表面を生かして切石を積み上げるルスティカという手法で造られており、船大工の技術を利用した折上天井や、椿の花をあしらった可愛らしい内装は、ピンクや水色のパステルカラーも相まってほんわかした雰囲気を醸し出している。
また、建築家の鉄川与助は、禁教令廃止後も差別に苦しんだキリシタンにとって鍵となる人物でもあった。なぜなら彼は、生涯仏教徒だったからだ。家業の大工を手伝ううちに西洋建築と出会い、ペリュー神父やド・ロ神父から教会建築を学んだ鉄川与助。五島に住む多くの人々はキリシタンでなくとも生活が厳しかったので、宗教が違えどお互い助け合えることが一番だった。ただ、集落によっては、生活を切り詰めても建築費用を捻出するのが厳しい状況。その分、勤労奉仕でお返ししたというが、なかには頭ヶ島天主堂のように、何度も工事を中断せざるを得ない集落もあった。
だからこそ、五島に建つ教会からはさまざまな工夫を見ることができる。先に紹介した奈留島の江上天主堂も鉄川与助の設計だが、ステンドグラスの代わりに描いた手描きの花や柱の木目も、資金繰りの難しさから生まれた工夫。頭ヶ島天主堂が切石で造られたのも、周辺で手に入る砂岩を建材にすることで費用を抑えることができたからだ。鉄川与助はそういった工夫を提案し、信徒に寄り添いながら建設を進めていった。こうして少しずつ、仏教徒とキリシタンが共生できる世の中になっていったという。
上五島では、下五島のようにすべての教会を回ることは出来なかったが、その中から印象に残っている教会をここに記しておきたい。それは、「桐教会」「土井ノ浦教会」「大曽教会」「冷水教会」の4つだが、土井ノ浦教会以外はすべて鉄川与助によるもの。たまたまではあるが、特に桐教会は、目前に広がる桐古里の入り江が本当に美しいので、ぜひ立ち寄ってもらいたい。
禁教の高札が撤廃され、キリスト教の信仰が解禁されたあとも、その多くが改宗に応じなかった潜伏キリシタン。その理由には、禁教時代に迎え入れてくれた寺や神社への恩義、先祖に対するリスペクト、村ごとの結束、直前に起きた迫害への恐怖などさまざまだが、自分たちの信仰の形が正確にはカトリックと異なることも認識していたのではないだろうか。
映画や小説のなかでも、本来のキリスト教とは異なるこの地特有の信仰の形(天国に対する概念や、信仰より形ある物を崇拝する行為など)が、セリフや行動を通して描かれているが、それは、その事を心配する神父だけでなく、今後も隠れキリシタンとして生きることを決めた信徒の心からも感じ取ることができる。
最後に、私は信仰というものを持っていない。だがまだ10代の頃、初めてパリのノートルダム寺院を訪れたときに感じた過去の記憶のようなものが、今もずっと私に信仰とは何かを問い続けている。だけど私には、なぜ彼らがあれだけの拷問を受けながらも耐え続け、そして信仰を守り抜いてきたのか。きっと一生かけても理解することはできないだろう。
それは、時代が違うからとかそんな単純なことではなく、今後もし自分にあのような過酷な日々が訪れたとしても、私には何かを信じて、そして守り抜けるものを持ち合わせていない。信仰に限らず、何か一つのことを純粋に信じ続けることができる心というのは美しい。けれど、同時にとても恐ろしい。犠牲を払い続けてもなお信じ抜くということが、それがどういうことなのか。考えても考えても答えに結びつかない。本当の意味でその答えを知り得ることはきっと一生ないけれど、私はもう少し考えたくて、潜伏キリシタンと関係の深い平戸へと向かった。
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http://kyoukaigun.jp/