♪ゴ——ン、ガ——ン、コ——ン、ポ——ン⋯⋯
これまでの「駄菓子的和菓子」、「参拝がてらハイキング」からつづく京都の日常シリーズ。第3弾となる今回は、京都の日常に当たり前に存在する五感の大切さについてお届けしたい。冒頭の♪〜は、寺院に鳴り響く鐘の音だが、寺一つとっても個性があり、それぞれが異なる音色を響かせている京都の町。重厚感も音の高さも強弱も、そのどれもが空気と重なりあって空中に溶けてゆく。
こうした音が聞こえてくる町というのは良いもので、キリスト教の国なら教会の鐘の音、イスラム教の国ならモスクから聞こえるアザーンなど、世界にはさまざまな音がその地域の生活と密着しているが、日本では残念ながら場所を選ばないと、宗教がらみの音は聞こえてこない。
しかし、ここ京都には至るところに歴史ある寺院が存在するものだから、鐘の音こそ限られるものの、日々の生活の中にその息吹を感じることができる。そして、そこには必ずといっていいほど大きな木が植えられていて、これは神社も含めての話になるが、行く先々でその木に守られているような気持ちになる。
お朝事に参加してお経を唱えることもできるし、落ち葉を掃き集める竹ぼうきの音にも日本の文化を感じる。音だけでなく、お香の匂いが漂ってくるのも寺町ならではで、思わずその香りを鼻で追いかけてしまう。全国各地にもたくさんお寺はあるけれど、盆や年末年始などの大きな行事以外は、一部の地域を除いて静まりかえっているのが日々の現状。しかし京都では、観光スポットでなくともほとんどの寺が起きて呼吸している。
コロナ禍の京都というのは、不謹慎だが本来の姿を取り戻しており、こんなにも風情を感じさせてくれる場所はそうあるものではない。京都の人々がより京都人らしく、良きプライドをもって生活しているのがよくわかる。インバウンドの波に疲れていた昨今の京都人からは想像もつかないくらい、背筋の伸びた姿が見られる。これには結構、同じ日本人として誇らしきものを感じる。
金閣寺や銀閣寺などの歴史的建造物も、こんなにも美しかったのかと再認識させられる。コロナ渦中、たくさんの寺院を独り占めしているが、お庭一つとっても、鳥の声や風に揺られる木々の音、水の流れる音それぞれに耳を傾けながら、1時間2時間と大切に過ごすことができる。考え事をするにもうってつけで、日々さまざまなことが浄化されていく。
コロナ禍の終息をねがう祈願もよく行われており、修行に励む僧侶の姿も美しい。春の枝垂れ桜からはじまり、初夏の緑葉、秋の紅葉と四季折々の景色を見せてくれる京の寺院。役目を終えて散っていく姿までもが麗しく、その季節ごとの色味で日々を塗り替えてくれる。雨に打たれて、風に耐えて、最後は雪に包まれて。青々と、赤々と⋯⋯。
こんなにも豊かに過ごせる時間というのは、今後京都に訪れるのだろうか。まざまざと見せつけられる日本の美にどんどん心が奪われる。庭の池にはゆらゆらと泳ぐ鯉がいて、借景という名の生きた絵がそこにはあって、夏は濡れ縁をそよ風がぬけてゆき、秋には目を奪われるほどの明媚がそぐそこに存在する。松も竹も桜の木も、肩に落ちてくる銀杏の葉も⋯⋯。
しかし不思議なもので、人を避けずとも容易に撮影できる現在の京都に長らく滞在していると、人のエネルギーが映り込まないのか、それはそれで何だか寂しい作品のようにも思えてくる。最初はありがたかったのに、人間というのは欲深いもので、かといって、京都にたくさんの観光客が戻ってくることを考えると少しばかり複雑。それはイコール、世界をまたいで自由を謳歌できるときなのだから、そのときは素直に喜ぶべし! と自らの邪悪な心を反省する。
それほどに、京都という町は本来とても美しい場所なのだ。それは観光エリアだけでなく、京都の日常そのものに存在する。だからこそ、人間がもつ五感をフルに活用して、一つひとつの音や匂いからくる感情を味わい尽くしてほしい。美しいものはすぐそばに存在する。その最高峰となる現在の京都という町には、そのヒントがたくさん隠されている。
ひとまず、京都の日常シリーズはこれで一旦終了するが、こうした暮らしの音や匂い、そして、その背景にある文化が溶け込んだ空気を食すという行為は、人間の心を豊かにしてくれる。五感を刺激すること=脳の働きを活発にしてくれるので、これはときに病の緩和にもつながる。精神を保つということがどれほど大切なことなのか、コロナ禍の今だからこそ真剣に考える時間をつくりたい。