2021年11月9日、作家であり僧侶の瀬戸内寂聴さんがこの世を去った。一昨昨日メディアで発表されてから、私はずっと彼女について考えている。少し前に読んだ記事の中に、画家の横尾忠則さんとの往復書簡のやり取りがあって、体調がすぐれない寂聴さんの代わりに、秘書である瀬尾まなほさんが代筆していたのだけど、その時にとうとうこの時期がやってきたのだなと感じてはいた。

というよりも、昨年あたりからなぜか寂聴さんの人生が終わりを迎えようとしているのではと頭に浮かぶようになり、もう100歳にも近い年齢だからそれも不思議なことではないと思いつつ、ただこれまで著書を読んだこともなければ、法話を聴いたこともない。嵯峨野にある寂庵の前を通ったことはあるけれど、それは単にあの周辺が好きでよく歩くからであって、そんな私がなぜ急に彼女のことを考えるようになったのか。それがずっと不思議だった。

Scenery in Sagano, Kyoto

それから現世をまっとうされるまでの約一年半、寂聴さんの記事を見かけるとそのページを開くようになった。少しおこがましい話ではあるけれど、いつかお酒を交わしながら話してみたいと思う人だった。きっと共通の知り合いも探せばいたかもしれない。だけど私はコネに頼ることが好きではなく、仕事とは別のところで純粋に会いたいと願う人物であればあるほど、たまたま出会った人との自然な流れからくる縁を大切にしたいと思っている。

ただ、そういった考えもコロナ禍で少しだけ変わりつつある。人と自然に出会う機会が減った今、積極的に会いたい人には会うための行動を起こさないと、必要な縁さえも消えてしまうのではと思うことがある。私は自然と人が集まる場所で働いていた期間が長かったけれど、どちらかというと孤独が好きで、ミーハーな面も一切なかった。だからこそ人と人との縁というものを客観的に見れていたのかもしれないし、店を運営する立場としては、それが信頼につながったのかもしれない。

Scenery in Sagano, Kyoto

だが、第一線で活躍する人にいい意味でミーハーな人が多いように、ときに強欲という感情は必要なのではないかと思う時がある。それは言い換えれば「あるがまま」という行動に近いだろうか。たとえば、何かを成し遂げる人というのは、一つの考えだけに固執することを第一とはしていない。その貫くべき考え=信念というのはもっと大きなところにあって、小さな枠の意見については割とブレる。そのブレが最終的に収まるところに収まり、結果素晴らしい何かを生み出すのだけど、これはなかなか本人以外は理解することができない。

なぜなら、その結果最初の意見に戻ることもあれば、否定されていた意見を取り入れられることもある。だから共に近くで時間を過ごす人間は、その小さなブレのほうを勘違いしてしまうのだけど、実際はそれこそが勘違いであり、そのブレのように感じる時間の中でいくつもの考えが巡りに巡っているだけのことであって、最初の意見と同じに聞こえても、それはもはや進化した新しい意見なのである。つまり、高い水準で物事を捉えられる人でない限り、ブレと勘違いしてしまうということである。

これは寂聴さんという人間にもあてはまるような気がする。彼女はそれを、彼女の人生そのもので体現しているように思う。厳密に言えばそれは先の何かを成し遂げる人の例とはまた異なるところにあるけれど、それができる類稀なる人間であって、それはそんな容易いことではない。そこにはたくさんの努力と人生経験が必要なだけでなく、その経験に対する喜怒哀楽や、愛情と孤独のような一見矛盾する気持ちなど、さまざまな感情なくしてそこにたどり着くことはできないだろう。

Scenery in Sagano, Kyoto

黒柳徹子さんが、寂聴さんに対するコメントで「みんなの味方が亡くなった」とおっしゃられていたけれど、まさにその通りだなと思った。この「みんなの」というのがすごく深い意味を持っていて、これは人間の多様性を皆に問うているように感じた。寂聴さんは、僧侶というよりも本当の精神科医のような、一般社会に敷かれたレールの上を歩くことが困難な人々の味方であったと同時に、一般社会の枠からぬけだせず踠いている人々にも寄り添う存在だったからだ。

たしかに寂聴さんは、今の時代でいう一般的なモラルに欠けた言動が過去にあったかもしれない。けれど、寂聴さんのようにたくさんの経験をした、たとえば精神科医などいるのだろうか。そんな人がどうやって患者を診断するというのだろう。精神科医に限った話ではないけれど、一般的なマスの世界では、こういう症状にはこういう薬というように、あくまで一般論で判断するのであって、こんな恐ろしいことはないなといつも思う。

Scenery in Sagano, Kyoto

人はその状況に自分がなってみないと、そのことを理解することは絶対にできない。そしてその状況も人それぞれで、そこには裏に隠された真実もあれば、現在からは想像もつかないような時代背景など、あらゆる事情が存在する。だからこそ、一般的なレールに敷かれていない人の言葉というのは大きい。意見を求めるのではなく、ただ話を聞いてもらうだけだとしても、どんな人間に聞いてもらえるかで結果は変わってくるように思う。

寂聴さん、あなたはこの文章を読んでどんな微笑みを浮かべるだろうか。私のこれまでの人生をもしあなたに話したならば、どのような言葉を紡ぐのだろう。寂聴さんという人間の人生を不意に考えることになったこの一年半、それが今の私に届けられたメッセージなのだと思う。寂聴さんの人生から学ぶことは多い。このメッセージに含まれる何かしらの意味を、これからも考えていきたいと思う。