今から20年前の2001年9月11日、ニューヨークのワールドトレードセンターやアーリントンのペンタゴンに、ハイジャックされた旅客機が次々と突入したアメリカ同時多発テロ。私は21歳になったばかりの頃で、まだまだ世間知らずの若者だった。あの日の夜はアルバイトも休みで、住んでいた東京は台風の影響もあり、一人暮らしのアパートの部屋で何気ない一日を過ごしていたように思う。

ワールドトレードセンターのツインタワー北棟に1機目が突入し、日本のテレビでも速報が伝えられ、直後に放送が始まった“ニュースステーション”でその映像が流れてきたときは、嫌な予感を抱きつつもまだ状況が掴めずにいた。その瞬間、ツインタワーの南棟に2機目が突入した。私はぎゅっと心臓を潰されたような感覚におちいった。それでも、その映像の角度からでは何が起きたのか理解できず、でも心臓の音だけはバクバクしていて、とにかく画面に釘付けになっていたことを覚えている。遠く離れた日本の地で、テレビ映像を通して見ている人間にもあれだけの衝撃を与えた事件。私はあの日の感覚を忘れることはないだろう。

New York in ​2002

イスラム過激派のアルカイダによるそのテロをきっかけに、およそひと月後に始まった米軍のアフガニスタン侵攻。そしてイラク戦争。あれから同じく20年近くが経過した2021年8月31日、アメリカ大統領のジョー・バイデンがその戦争の終結を宣言した。私はこの20年を、そしてこの戦争の終わり方をどう捉えればよいのだろう。それが私の率直な意見だった。

アフガニスタン紛争についてここに書くことはしない。このセンシティブな内容について、そもそも日本人である私が理解することはできるのだろうかと、個人で調べて向き合ってはいるものの、いまだ表面的な事実しか掴めていない。原爆投下や東日本大震災について、他国が本当の意味で理解することが難しいように、もっともっと考えていく必要があるだろう。

New York in ​2002

これは、私が欧州と日本を行き来する生活になって感じたことだが、たとえば、滞在することが多いフランスでは、本当にテロやストがよく起きる。でも、日本でそのニュースを見るときのそれとは温度差がありすぎる。それは、日本が大袈裟に捉えすぎている場合もあれば、その逆で、簡単にしか考えられていないと感じることもある。この同時多発テロに関してもきっと、当事者である米国と他国、特に平和な日本とでは、見え方や捉え方が異なることだろう。

それは仕方のないことだが、いくら日本が平和だからといって、何も知らずにのほほんと暮らすわけにもいかない。体験者や残された遺族の手記を読んだり、このテロを題材にした映画を見る。それだけでも世界への見方は変わってくる。それこそ、今では普通になった空港での身体検査や手荷物検査も、靴を脱いでまで厳しく調べるようになったのはその後も相次いだテロ未遂事件がきっかけだ。こうして世界は少しずつ、そしてあっという間に変化する。

New York in ​2002

だから今回は、あれから20年が経過した今、私がテロの次の年に訪れたニューヨークで感じたことを、覚えている限りここに記しておきたいと思う。そう、私は次の年の2002年10月にニューヨークを訪れたのだ。あの映像に衝撃を受けた私はできるだけ早く、ただし危険な状態が過ぎたときに、少しでもその空気を感じておきたいと考えたのだった。

New York in ​2002

ニューヨークには、たしか10日ほど滞在したはずだ。妥当な価格のホテルが取れず、最初の3日間だけ予約を入れて飛び立ったと記憶している。当時はまだ、ブッキングドットコムやエクスペディアなどの便利な予約サイトもそこまで発展しておらず、でも休みが取れる期間は決まっていた。だからあとは、現地の旅行会社やホテルに直接赴いて聞いてみようと、とりあえず旅立ったのだった。

テロの標的となったワールドトレードセンターの跡地には、今も見つかっていない人々の情報を書いた紙があちこちに貼られていて、たくさんのメッセージが書かれた服や国旗、花や折り鶴がぎっしりとフェンスにかけられていた。テロからちょうど一年が過ぎた後だったということもあるだろう。一歩道をそれれば当たり前の日常が戻っているけれど、ここだけは他とはまったく空気が異なっていた。

だけどニューヨークは、そんな悲しい事件があったのかと思うほど活気に満ちていた。チェルシーはコンテンポラリーアートの最前線でたくさんのギャラリーが立ち並び、グリニッジヴィレッジのジャズカルチャーは落ち着いてはいたけれど、それはそれはどのエリアも個性があった。ブラックミュージックで有名なハーレムはまだまだ危険で近寄りがたかったし、若い頃の私は古着が好きだったので、当時勢いのあったロウアーイーストサイドにもよく足を運んだ。たまたま入った古着屋が、フリーマーケットで同じ靴を取りあったバイヤーの店だったりと、その人とは「趣味があう!」と顔を見合わせて笑ったものだ。

そんなこんなでこの地区に行くと「あの店もきっと好きだよ」といろいろな店を紹介してくれて、どんどん人のつながりを持つことができた。みな親切で、それはそれは楽しかった。古着屋でアルバイトをしていた女の子が、アパートメントの空き部屋を貸している近所の人を紹介してくれたので、4日目以降に泊まるホテルも無事解決と、この界隈の人たちには本当にお世話になった。それこそ今でいうAirbnbだが、当時その人はさまざまな国の人と話したいという理由から空き部屋を解放、なんと無料で泊めてくれたのだった。

今でこそクリエイティブなエリアの最前線として有名なブルックリンも、当時はまだ工場の跡地に、古着屋やレコードショップなど、数軒の限られた店舗のみが店を構えていた時代。工場地帯の跡地だったこの土地が発展していったのは、マンハッタンの家賃が高騰し、アーティストやクリエイターがイーストリバーを挟んだこちら側に移り住んだことがきっかけだが、2002年のブルックリンは、まだまだ一部を除いて危険な香りが漂う一帯だった。

お洒落なカフェやバーなどあったかなというくらいに閑散としていた記憶だが、今後面白くなっていく気配がそこにはあった。日本の雑誌でもすでに紹介されていたし、あの頃は東京も本当に勢いがあったので、当時の雑誌はユニークな場所を感知する能力にも長けていた。そういえば、近代美術館のMoMAが大規模な改装のためクイーンズに移転していて、今もMoMA QNSとして残されているようだが、あの周辺も当時はグラフィックだらけのただの倉庫街だった。

New York in ​2002

もしかすると、私が接した人の中にはテロで身近な人を亡くした人がいたかもしれない。でも私の目に映るニューヨークは、どこか寂しさがありながらも緊張感とエネルギーに溢れた世界だった。同時多発テロのような大きな出来事があると、人は前に向かう能力が発揮される。戦後の日本の経済成長が著しかったように、抑え込まれていたエネルギーがその場に向かってどんどん集まってくる。ブルックリンがこんなに栄えていったのも、家賃高騰以外の理由にテロが関係しているのではないかと私は思う。現在の日本ではあまり考えにくいことだが、新天地を求めざるを得ない状況というのは存在する。

アメリカがテロに臆することはないと、あまりにも早く日常を回復させていったことには賛否両論あるだろう。だが、今回のコロナウイルスでも思うことだが、このアメリカの前に進む力から学ぶことは多い。臆していては何も始まらない。犠牲は伴うかもしれないが、無理にでも進むことで見えてくるものがある。もちろんこれは人それぞれなので、自分にあったやり方で進めばよいと思う。そして今後も9.11のようなメモリアルに、世界の平和について考える人がたくさん増えていったらいいなと思う。