みなさんは、自分のルーツについて考えることがあるだろうか。
私は、結構考える。このメディアのサイト名『Ökumene/abs』の「Ökumene」は、人間が居住し活動できる空間を意味する地理学上のワードだが、キリスト教の運動にも語源となる言葉が使われている。その為、誤解を招きたくないので先に断っておくが、今回の記事はスピリチュアルの提唱ではない。私は無宗教だし、特定の宗教だけを持ち上げることにも興味がない。
ただ単に、世界中の美しいものを追いかけていると目には見えない不思議な力というか、そういう普通では計り知れない神秘に遭遇することも事実であって、しかもそこには、過去何千年という歴史も関係するものだから、さらにそこを追求していくと結局はまた神秘につながる⋯⋯みたいな、そんなループなのである。
そこで考えることになるのが、やはり自分のルーツ。だが不思議な縁を感じる場所だとか、不思議な夢を見る、不思議な体験をするなど、そういう第六感的な要素というのはインスピレーションを楽しむ行為にも近い。そういうところから生まれる思想というのはなかなか面白いもので、きっとそれらは自ずと意識して創り上げているだけのような気もする。
そんなわけで今回は、自分のルーツについて考える中で浮上してきた秦氏という氏族と日本、とりわけ京都との関係を取り上げてみたいと思う。秦氏について私が意識するようになったのはここ1〜2年のことで、それこそ長期で京都に滞在しているときだった。このルーツを考える時間というのは不意にやってくるもので、その時も何か別の案件を調べている最中だったように思う。
秦氏とは、古墳時代前期の283年に日本に渡来してきた氏族のこと。日本書紀には「応神天皇14年に、弓月君が120県の民を率いて百済から来朝した」と記載されており、この弓月君が秦氏の祖とされている。また、のちに編纂された新撰姓氏録には、弓月君が秦の始皇帝の末裔とも記されており、さらにルーツを辿っていくとイスラエル、つまりはユダヤ人にまでつながる。
これには諸説あるので、興味のある方には自分で調べていただくとして、個人的には、これが本当ならとっても面白いストーリーだと追及せずにはいられない。この件に関連する本や資料もいくつか読ませてもらったが、これまでの人生で私が惹かれてきたことや、それこそ第六感的な部分で感じてきたことも関係しており、私の文化的アイデンティティとも重なる。
彼ら氏族は、のちに日本の政治や文化と深く関わるようになるのだが、なかでも飛鳥時代に活躍した秦河勝の存在を忘れてはならないだろう。聖徳太子の右腕として手腕を発揮し、日本の国造りにも大いに貢献した秦河勝だが、実は彼は政治だけでなく、日本の伝統芸能・能楽の始祖でもある。というのも秦河勝はモノマネの名人で、聖徳太子がよく命じて遊んでいたという。その際に、あまりの上手さに66個の面を授けるのだが、それがつまりは、猿楽の始まりなのだそうだ。
京都の太秦にある「広隆寺」は、聖徳太子から賜った弥勒菩薩像を祀るために秦河勝が建てた氏寺だが、この太秦を中心に、嵯峨野一帯は秦氏の本拠地だった。「蛇塚古墳」「天塚古墳」は秦氏の墓と考えられており、周辺の「大酒神社」「木嶋坐天照御魂神社(通称:蚕の社)」「松尾大社」などにも秦氏が深く関係している。大酒神社に関しては、明治の神仏分離令が発令される前まで広隆寺の桂宮院内に伽藍神として鎮座していたとのこと。
秦氏という氏族は、その姓氏や木嶋坐天照御魂神社の通称=蚕の社からもわかるように、養蚕と機織の技法を日本に伝えたことで有名だが、その他にも酒造や農耕、鍛冶、土木、紙すきなどの技術に長けていた。その為、長岡京や平安京の遷都にもその高度な技術や財力を惜しみなく提供している。また、平安京の宮城にあたる大内裏は、秦河勝の邸宅があった場所。それだけ彼らは、良い土地を所有できる立場だったということだ。
そして、秦氏にゆかりのある土地は嵯峨野一帯だけではない。京都の南部に位置する伏見区深草あたりも彼らの拠点。朱塗りの千本鳥居で有名な「伏見稲荷大社」も、秦氏が氏神として信仰している。さらには、賀茂氏の氏神を祀る「上賀茂神社」と「下鴨神社」。こちらも実は秦氏と関係が深い。というのも、賀茂氏と秦氏は婚姻関係で結ばれており、下鴨神社の境内にある「糺(ただす)の森」は、嵯峨天皇の時代に蚕の社から移されたもの。社紋も同じ二葉葵なのである。
ちなみに、蚕の社の境内にある「元糺の池」に三柱鳥居という珍しい鳥居が建てられているが、これは原始キリスト教・景教の遺物である、ユダヤ教のダビデの星を模した形状をしている、キリスト教の三位一体を表しているなど諸々囁かれている。この鳥居の下からは、かつて水が湧き出ていたとのことで、さまざまな謎に包まれてはいるものの、ただただ神秘的であることに違いはない。しかも鳥居の柱は八角形。大酒神社の柱もそうだが、これは同じく八角形の柱をした伊勢の猿田彦神社ともつながりがあるのかもしれない。
このように秦氏は、日本の文化や宗教、産業などの発展に欠かせない人物だった。京都以外にも周辺の近畿地方、九州北部、中国、四国などの瀬戸内周辺、北陸、東海地方を中心にたくさんの足跡が残されているが、神社でいえば、全国にある八幡宮は秦氏が建てたもの。聖徳太子だけでなく、のちに大師として崇敬される空海にも多大な影響を与えている秦一族。これだけの影響を残していながら、渡来人だから日本人のルーツとは関係ないと考えるのは逆にむずかしい。
それにしても、広隆寺にある国宝・彫刻第一号の「弥勒菩薩半跏像(通称:宝冠弥勒)」は次元が違う。私はこの弥勒菩薩の前でしばらく動けなくなった。何度この空間から離れようとしても、気になって仏像の前に戻ってきてしまうものだから、もう目を瞑ればパッとそこに現れるほどに、あの折り上げた右足、右膝につく右肘、右頬に触れはしない右手の指先、そして、あのアルカイックスマイルをした弥勒菩薩の姿が私の中に入ってきている。思惟する姿とはまさにこのこと! 本当に素晴らしい。
弥生時代から古墳時代にかけて、秦氏だけでなくさまざまな氏族が来朝した日本。彼ら氏族の数は、のちの人口の増え方から見ても、それまでの日本を脅かすほどの人数だったと思われる。渡来人によって伝わった水田稲作が全国に広がり、社会が発展すると共に貧富の差が生まれ、ムラとムラ同士の戦いや協力から国という概念ができ、邪馬大国、ヤマト王権へとつながっていく日本だが、そこで不思議なのは、彼ら氏族が日本を武力で征服したり、支配することを選ばなかったことだ。
なぜなら、彼らは多くの技術や富を所有していたので、たとえば原始キリスト教なるものを日本に強要してもおかしくはなかったはず。にも関わらず、むしろ神道をリスペクトし、日本という国の発展に尽力。それは、日本人として同化していくことを彼らが選んだと考えられる。そこには、応神天皇やその前の仲哀天皇など、当時の天皇たちが彼らを暖かく迎え入れ、土地を与えたこと。そして、日本という国が自然に恵まれており、戦争から逃れてきた彼らが、安心して落ち着ける場所だったことも大きいのではないだろうか。
日本で生まれ育ち、海外で暮らすことになった日本人は、良くも悪くもその土地に同化していくと言われる。だが、日本の遠い過去には今とは逆に、来朝する人々が自然と日本に同化していける配慮があり、そこから新たな技術を学びとる柔軟性に加えて、縄文時代の伝統を継承する力もあった。これは本当に凄いことだ。私はこれまで他の国に同化していく日本人は、母国に対するアイデンティティの欠如が一つの要因であると考えていたけれど、一概にそうとは言えないと考えが変わりつつある。
だけど、一人の人間としての個のアイデンティティはもう少し意識してもよいのではないだろうか。それは日本にいようが海外にいようが、相手との関係を築く上で大切なことだと思う。もちろん、そのアイデンティティが一つである必要はない。日本は島国で閉鎖的とも言われるけれど、こういった過去の渡来人との歴史を紐解いていくと、もっと誇りに感じてもいいと思うし、日本人には元来、多様性を受け入れられる心がすでに存在しているように思う。
また、秦氏に限らず、過去の歴史上にいる人物たちは、学問、芸術、宗教、道徳など、ありとあらゆるものをこの世に残してくれたので、その後に生まれた私たちは、こんなにもたくさんのモノやコトに出会うことができる。そこには過去のトキが存在していて、そのトキを味わうことは現在はできない。でもモノやコトを消費するのは現在。つまり、トキというのはいつも現在進行形なのだ。
すごく当たり前のことだけど、コロナ禍になってこのトキについて考えることが増えたように思う。それは、今を大切にということだけでなく、過去に生まれた作品や歴史に刻まれてきたトキについても、以前より身近に感じられるようになった。想像力の幅が広がったとでも言おうか。きっと人も動物も、これまでにない体験をすると新たな世界が見えてくるのだと思う。だからこそ、相手へのリスペクトと自分の存在を大切に、皆が誇らしく生きていける世の中になればと思う。