連載『マイコビッドナインティーン』は、欧州と日本での引っ越し生活を第二の人生のライフワークとする私が、これまでに体験してきたコロナ禍での暮らしと、その暮らしを中断せざるを得ない現状、そして復活させるまでの日々を綴るエッセイです。

 今日からスタートする連載『マイ・コビッド・ナインティーン』は、タイトルどおり、私のコロナ禍の記憶をたどるストーリーである。この連載は、共感してくれる人がいる反面、きっと多くの人の反感も買うことだろう。その反感を覚悟するまでに結構な時間を要したけれど、やはり私はこの経験を何かに残しておきたいし、このコロナ禍でどう前に向かっていいのか、人生の本質そのものがわからなくなっている人に伝えていきたいことがある。

 日本の首相が岸田さんになってから、他の先進国同様の迅速な対応で前に進もうとしていることは理解できる。だがその反面、自分の意見を他人の行動を見ながら右に倣えしてしまう日本人気質そのものといった印象も否めない。一般人ならそれで構わないが、岸田さんは総理大臣。批判を気にしてではなく、状況によって世論の善し悪しを判断できる人、または、最高にしたたかな人間ならば逆に期待できるのだけど、いまいち何を考えているのかよくわからない。

 私はもともと年の瀬になると鬱屈する傾向があるのだが、2021年の暮れに関しては何かこう、ものすごく閉ざされた空間の中にいるような気がして、まるで鳥かごのような小さな場所でバタバタと踠いているかのような、そんな時間を過ごしていた。ようやく日本も経済を動かすことに舵を切ったというのに、一部の世論を真に受けてまた後退しようとしている。そんな気がして窮屈でならなかった。オミクロン株の出現により、今まで以上に厳しい水際対策が敷かれていること。これも関係するのかもしれない。いつもなら大晦日の前日には気分が晴れているけれど、今年はもう難しいのではないか。そんな予感しかなく、文章を書くことはもちろん、本を読むことも映画を見ることもできなくなっていた。

 そんな2021年も残りわずかとなった12月29日の夜、晶文社のWebマガジン『スクラップブック』に掲載されている、宮崎智之さんの「モヤモヤの日々」という連載に出会った。どうやってこの連載にたどり着いたのかは覚えていないが、私は気持ちがふさいで文章が書けなくなると、目の前にあるノートブックのGoogle検索に、自分の感情「〜とは」と入力する癖がある。 

 あの日もそのような行動をとったのか、はたまた別の検索から発見したのか。いつもは空振りに終わるだけの変な癖だが、今回は、宮崎さんの秀逸な文章とユーモア溢れるストーリーに感嘆し、一気に鬱から躁状態へ回復! 次の日が連載の最終回とわかったときは悲しい気持ちになったけれど、同時に過去の記事がたくさんあることが判明して再度回復! このエスカレーター的感情はちょっと危険ではあるけれど、ひとまず普通の正月が迎えられる。私はようやく、胸をなでおろすことに成功した。

 そして、この連載との出会いは何か私にもたらすのではないか。そんな予感さえした。なぜなら、この連載をすべて読み終えた日から2日後の2022年1月2日、私は愛媛の高級みかん「紅まどんな」を、母方の祖母からいただいたのだ。というのもこの「紅まどんな」は、「モヤモヤの日々」という連載のキーワードとなる高級みかん。偶然とはまさにこのこと! いい予感しかしない。 

 そんなこんなで、私の2022年は「紅まどんな」とともに始まった。だからこそ、この偶然を偶然のまま終わらせることはできない。2021年の末に感じた「もう我慢できない、もう限界」という気持ちと、岡本太郎による「芸術は爆発だ!」的な気持ち両方を味わった私は、2022年に欧州と日本を行き来する生活を再開することにした。もちろん、いつになるかも実際どうなるかもわからない。でも目標は3月から5月に設定した。私は最初のパンデミックをイタリアで経験している。だからこそ、この時期にイタリアに戻ることに意味があるのだ。

 この連載では、私のコロナ禍を振り返るとともに、欧州と日本での引っ越し生活を再開させていくまでのストーリーを描きたい。真実をありのままに描いていきたい。なぜなら私は限界なのだ。そして、私はこの限界が危険なことを知っている。私がなぜ日本と欧州を行き来する生活を始めたのか。その理由は、一度完全に壊れてしまったことが関係する。だからもう二度と壊れるわけにはいかないのだ。その限界がきた。私は今、そう感じている。