石川県金沢市本多町、ここに私の好きな空間がある。禅の思想を欧米各国に広めてきた仏教哲学者「鈴木大拙」について学べる博物館の「水鏡の庭」。ここがその私の好きな空間である。
1870年(明治3年)、旧金沢藩藩医の四男として生を享けた鈴木大拙は、本名を鈴木貞太郎、英語名をD. T. Suzuki(Daisetz Teitaro Suzuki)という。「大拙」という名は、僧の釈宗演から授けられた居士号で、ことわざの「大巧は拙なるが如し」からとられたもの。ちなみに居士とは、出家をせずに家庭で仏道を修行する在家信者のことで、豊臣秀吉に仕えた茶人の千利休も日本の著名な居士の一人である。
現在の金沢大学にあたる第四高等中学校を家計の事情で中退し、英語教師を経て上京した鈴木大拙は、東京専門学校(現:早稲田大学)へ入学。ここで再び学問の世界へと足を踏み入れる。在学中に鎌倉の「円覚寺」で参禅し、今北洪川に師事。その後、帝国大学哲学科選科(現:東京大学)へ入学し直し、今北老師の死後は、跡を継いだ釈宗演に師事するのだが、ここで釈宗演と出会っていなければ、大拙の人生は私生活共々まったく異なるものになっていたことだろう。
というのも釈宗演は、大拙に居士号を与えただけの人物ではない。大拙がのちに結婚する神智学者のベアトリス・レインとの出会いも、ベアトリスが禅の研究で釈宗演のもとを訪れていたことがきっかけ。そして、大拙が1897年に渡米することになったのも、シカゴ万国博覧会の一環として開催された1893年の万国宗教会議に、釈宗演が出席したことがきっかけなのだ。なぜなら、このときの釈宗演の演説に感銘を受けた仏教学者のポール・ケーラスが、英語に堪能な人物の派遣を要請。そこで大拙が選ばれることになる。
その後は、ポール・ケーラスが編集長を務める出版社オープンコートにて、東洋学に関連する書籍の編集や翻訳に約11年携わり、禅や仏教について書かれた自身の著書も英語で発表。1949年から1958年には再び渡米し、ニューヨークを拠点にアメリカ各地で講義を行ってきた。しかも、この頃の大拙はなんと80代である。さらには、スイスや英国、ドイツなど欧州各国でも講演。こうして生涯にわたって、日本の禅文化を世界に広めてきたのである。
建築家の谷口吉生によって手がけられた「鈴木大拙館」は、知る、学ぶ、考えるという3つの空間を通して大拙の心と思想に触れ、そこから得た感動や自身の心の変化について深く向き合うことのできるミュージアム。その最後の時間を過ごす思索空間にあたるのが、水鏡の庭を眺めることができるスペースだ。
私は、過去にひと月ほど金沢に滞在したとき、この水郷の庭の内側と外側、さまざまな角度から水面を見つめ、長く考える時間を過ごさせてもらった。天気によって水面の動きが変わり、空の雲や木々の動きによって水面に映る色も変わっていく。そんな時の流れを前にして、自分のペースで穏やかに考えることのできるこの空間は、禅の心や思想というものを深く考えなくとも、現在の自分に何か一つのことを問いかけてくれる。
最後に、私の好きな鈴木大拙の言葉を紹介したい。鈴木大拙が描く思想の一つに、「不思議は『今・此処』というところに在る」という一文がある。1955年に出版された「アメリカの昨今」に掲載されたものだが、以下、岩波書店の『鈴木大拙全集:増補新版 第34巻』より引用させていただく。
“数字はいくら重ねても、機械はいくら精巧になっても、いずれはこの目で見、この耳で聞くことの外に出ないのである。
無限の数といっても、それはいずれも一単位から始まるのである。
驚くべきはむしろその始めの一にあるのだ。「一」というとき、既に無限がその中に在るのだから、何億年の時間を経て、何億光年の空間を通って、二代星団の激突が、今、此処にきかれるということは、別に不思議でも驚異でもないのである。
不思議は「今・此処」というところに在るのである。”