連載『マイコビッドナインティーン』は、欧州と日本での引っ越し生活を第二の人生のライフワークとする私が、これまでに体験してきたコロナ禍での暮らしと、その暮らしを中断せざるを得ない現状、そして復活させるまでの日々を綴るエッセイです。

 嫌な予感はつづいていた。日本の感染症法の「指定感染症」にも指定された新型コロナウイルスは、2月に入るとますます私たちの生活に浸透してくるようになった。中国・湖北省に滞在歴のある外国人の入国拒否がはじまり、マスクや消毒液が店頭から消えるようになった。この新型ウイルスにいち早く警鐘を鳴らしていた中国人医師・李文亮氏が7日に亡くなり、10日には中国の死者が1,000人を超えた。2月11日、WHOが新型コロナウイルスの正式名称を「COVID-19」に決定した。

 この時期、日本だけでなく世界の注目を集めることになったニュースが、クルーズ船「ダイヤモンドプリンセス号」の行方であろう。日本の横浜港を1月20日に出発し、鹿児島、香港、ベトナム、台湾、沖縄と周遊して2月3日に横浜港に帰港したクルーズ船は、香港で下船した乗客の男性から感染が確認されたため、多くの乗客がクルーズ船での隔離を余儀なくされた。このクルーズ船には、50か国以上の出身地からなる人々が乗船しており、結果、乗員乗客3,711人のうち712人が感染、13人が死亡した。

 一方、この頃の私は、実家で原因不明の激痛に襲われていた。香川県にある善通寺で、空海ことお大師さんに年始の挨拶をした数日後のことである。わき腹周辺に刺すような痛みが走り、そのたび崩れ落ちるような、悲鳴を上げるような日々を過ごしていた。血液検査とエコーの結果は、白血球の一部の数値こそ上昇していたものの特にこれといった原因は見つからず、ついにCTを撮ることになった。

 私は欧州と日本を行き来する生活に変えるまでの約10年間、ずっと体の不調に悩まされてきた。特に直前の数年は最悪で、仕事以外の気力はすべて失われている状態だったが、病院には行かずなんとかやり過ごしていた。なぜなら私は病院が大っ嫌いなのだ。一度正社員で誘われた仕事以外はずっとフリーランスだったので、人間ドックも受けたことがない。

 だから今回は、ここぞとばかりに先生に不調を訴え、これまでの症状をいろいろ尋ねてみることにした。「先生、私、脳が心配なんです。もしかしたらこの痛みも脳が関係しているかも」と真剣に告げると、全身のCTを撮ってくれることになった。生まれてはじめて入ったCT室には痛みを抱えながらも心が躍り、思わずスキップしそうになった。いや、おそらく軽くした。結果は腎臓に結石。そりゃ痛いはずである。

 しかし、他はすこぶる健康で、先生もちょっと苦笑い気味。つまり、過去の度重なる不調は精神からくるものだったのだ。実際に欧州と日本を行き来するようになってから、それまでの症状は嘘のように消えていた。先生は「脳はCTでは限界があるけど、とりあえずよかったね」とやさしく笑っていた。肝心の結石は、どうやら腎臓に戻ったとかなんとかで、無理に取らないほうがよいとのこと。これには釈然としないものの、無事に痛みも和らいだことだし、ひとまず運にまかせることにした。

 その後はイタリアに戻る飛行機を2月後半に予約していたため、それはそれは時間に追われる日々だった。通常の仕事以外に、確定申告の時期でもあったからだ。余った頭のスペースは、日本と欧州の新型コロナウイルスの状況に支配されていて、私の脳は常にフル回転していた。飛行機が運休になる可能性もあったし、日本からの入国を禁止される可能性もあった。当時は今とは逆の状況で、とにかく欧州にウイルスを持ち込んではいけないと、神経質以外の何者でもない日々を送っていた。

 イタリア北部に位置するベネト州やロンバルディア州で事態が深刻になりはじめたのは、2月21日に初の死亡者が確認されてからだった。それから2日間で70人を超える感染者が確認され、22日には感染が拡大している11の自治体で住民の出入りを原則禁止。部分的に封鎖状態となった。イタリア政府の対応は早く、これらの自治体からおよそ60キロ離れたロンバルディア州の州都ミラノでも、学校の休校や美術館の閉館、イベントや集会の中止など、すぐに感染対策のための措置がとられた。

 しかし、イタリア北部を中心に新型コロナウイルスの勢いはとどまるところを知らず、2月29日にはあっという間に感染者が1,100人を超え、死者も29人になった。ちなみに、中国への渡航歴がないイタリア人からはじめて感染が確認されたのは2月20日。ロンバルディア州のコドーニョに住む38歳の男性だった。中国人の友人と食事をしたとのことだが友人は陰性で、感染経路を追えない症例事態もはじめてだった。それまでのイタリアの感染者数はたったの3人。すべて海外から持ち込まれたものだった。

 到着した羽田空港は、見たことのないうす暗さだった。私はひとまず大きな荷物をロッカーに預け、東京の街へと向かった。この頃の日本は海外からの帰国者が多く、空港で長時間過ごすことのほうが心配だったからだ。深夜発の便で時間があったので、それまでに一件人と会う約束を入れていた。四国でこれでもかというくらい神経質な日々を送っていた私は、インフルエンザの流行時期でさえしたことのないマスクを新しく装着し直し、3密回避を意識して行動した。

 セブ島から戻って以来、ひと月半ぶりに足を踏み入れた東京は、マスク率こそ高かったものの、いつもどおりの東京だった。だけど私の目に映る東京は、もう過去の東京だった。およそ1年前まで20年近くこの地で働いてきたけれど、その頃の感覚を思い出すことはなかった。だから私には、欧州に戻る以外の選択肢はなかった。第二の人生をスタートしてまだ間もないのに、コロナウイルスなんかに邪魔されてたまるかと必死だった。

 今考えてみると、あの日空海は予兆していたのかもしれない。四国はお遍路の八十八か所霊場で知られるように、ここで育った人間は、幼い頃から空海と馴染みがある。私はこの後のコロナ禍を結構な頻度で空海に助けられることになるのだが、あの腎臓に痛みが突き刺す前の善通寺で、空海は何か私に伝えてきたのかもしれない。だとしたら、今後私が経験することになる日々は、最初から意味あるものだったに違いない。

 こうして私は2020年2月28日、正確には2020年2月29日の未明に、イタリアへ向けて羽田空港を出発した。

※こちらのページに記載している新型コロナウイルスに関するニュースの時系列や感染者数は、NHKの新型コロナウイルス特設サイト在ミラノ日本国総領事館の新型コロナウイルス感染関連情報を参考にさせていただきました。