連載『マイ・コビッドナインティーン』は、欧州と日本での引っ越し生活を第二の人生のライフワークとする私が、これまでに体験してきたコロナ禍での暮らしと、その暮らしを中断せざるを得ない現状、そして復活させるまでの日々を綴るエッセイです。

 私が今回滞在しているアパートメントはステッラと呼ばれるサニタ地区にあり、洗濯物が頭上をはためく超大衆的なエリア。まさに昔ながらのイタリアが味わえる雰囲気で、たとえるならば、ソフィア・ローレンやマルチェロ・マストロヤンニが活躍していた時代のイタリア映画に登場する、ガチャガチャとした、隣人同士が言い合いしているような、そんな生粋の下町エリアにある。アパートメントの下でバケツに物を入れて、上階に引き上げていく姿も未だに見られる。

 このような下町ならではの光景は、世界遺産でもある歴史地区のスパッカナポリから一本入った路地裏や、トレド通りの裏側に位置するスペイン地区でも見られるが、サニタ地区は城壁の外にある住宅街。昔はイタリア人の貧困層が住んでいたエリアで治安の心配もあったが、今は昼間であればそこまで気にする必要はない。メインとなるヴェルジニ通りからサニタ通りにかけては、サンフェリーチェのバロック建築やカタコンベが残されており、商店も立ち並んでいるため商業的な要素も多少はある。だが決して裕福とはいえず、基本的には生活感だけが漂う一帯なのである。

 こうした昔ながらの区域に建つアパートメントというのは、エレベーターがなく階高が高い。階段自体にも高さがあるので、年寄りでなくとも毎回昇り降りするのは結構大変。荷物があればなおさらである。それもあって、お金を入れたバケツをバルコニーから下ろし、部屋にいながら一階にある商店で買い物をしているのだけど、これが実に面白い。通りの商店と直接やりとりしているだけでなく、下を歩いている人に声をかけて頼んだりしているものだから、ナポリの人というのは見ているだけで心温まるものがある。

 ナポリ以外のイタリア各地やスペインでもたまに見かける光景だけど、そこにナポリほどの人情があるかと問われるとちょっと違う。やはり、ここナポリにおける混沌たる大衆がゆえのこの光景は、特別と言わざるを得ない。今はいつの時代なのかと錯覚するほど人情溢れるイタリアの町・ナポリ。そのナポリの中のナポリで暮らす私は、どうやらロックダウンになったことで、より本当のイタリアを知るための機会を得たようで、実際にこの後、あらゆる感情の狭間で生きる人々の姿をまざまざと見せつけられることになる。そのくらい、ここステッラでは人々の生活の息吹を間近に感じることができるのだ。

 しかし、ロックダウンになってからのイタリアというのはイタリアらしからぬ落ち着きようで、コンテ首相の言葉に胸を打たれたのか、はたまた罰則があるからなのか。きっと両方の理由から、ほとんどの人がきちんと規則を守って生活しているように思う。もちろん、私が暮らすアパートメントの近所の人たちや、日用品を買いに行くまでの道中、そして、スーパーマーケットでしか判断できないけれど、斜め前のアパートメントのいつも何かと騒がしいおじさん・アントニオ(仮名)も、普段よりは静かである。

 だが、ここは南部の町ナポリ。イタリア北部のようにずっと優等生でいられるだろうか。この混沌とした町から生活感が消えるなどそう容易いことではない。ただ、イタリア人は素直である。これに関してはきっと、北部よりも南部の人間のほうが素直である。コンテ首相の会見から伝わってきた緊迫した空気を、そのまま自分の感情へと落とし込む力がある。いつまで落ち着いていられるかは予想がつかないが、一つ言えることは、私を含めて皆よくわからない状態なのである。だから様子を見ている。最初はそんな雰囲気だった。

 そんな人間味だらけのサニタ地区に、一体何事かというような音が鳴り響いたのは、イタリア全土に移動制限が発令されてから4日目の3月13日のことだった。私はアペリティーボにビールを楽しみながら、夕飯の準備に取り掛かっていた。すると何やら外でカンカンと音がしている。この周辺では日曜日の午前中、復活祭の四旬節による伝統行事の一環だとは思うが、キリスト教のタペストリーを手に持った人々が吹奏楽団の演奏と共に行進している。今回もその関係かなと深くは考えず、ポトフに入れるための野菜を切っていた。

 それにしても様子がおかしい。どんどん音が大きくなっていく。よく考えてみると今日は金曜日で、時計の針も夕方6時をまわっている。それに今はロックダウン中。あらゆることが禁止されているのだ。まさかデモの一種? もうロックダウンに耐えられなくなったとか? それならまずいと手を止めて窓から外を覗いてみると、なんと皆さん、バルコニーから身を乗り出して鍋を叩いているではないか。なんだこれは? どうやらデモとは違う。中心となって指揮をとるのは、いつも何かと騒がしいアントニオ。しかも彼は、奇妙な帽子を被って斧のようなものを台に振り落としているが大丈夫だろうか⋯⋯。

 もしかして、サッカーの地元チーム=SSCナポリが優勝したとか? いやいや、今はロックダウン中。セリエAの試合も禁止されている。とりあえずみんな笑っていて楽しそうだし、私も面白いからテンションアップ! と同時に気になるアントニオの行く末。今度は空に向かって何やら叫んでいるのだ。Google翻訳に相談すると、どうやら「空に願おう」と繰り返しているようで、コロナの終息を願っているのだろうか。「やるじゃないかアントニオ。あなたの気持ちはきっと届く」。私は感動して少し涙ぐんでしまった。

 アントニオのことはちょっと心配だけど、私もひとしきり楽しんだことだしと、出来上がったポトフを食べながらニュースを見ていたら、なんとそこには、先ほどのあの騒ぎに似た映像が流れている。私の暮らすエリアにくらべると楽器を利用するなどして洗練されているが、同じように鍋を叩いている地域もある。あれ、これは一体。そこで私は、ようやく気がついたのだった。これはイタリア各地で計画されたゲリラパフォーマンスの一種。つまり、フラッシュモブだということを。

 この映像以外にも、大きな犬を相手にダンスを楽しむおじさんの姿や、子供たちが描いた虹の絵がバルコニーに掲げられる様子が画面を通して流れてきて、「あー、これぞイタリア人。この人たちは何があっても最後には笑って死ぬことができる」。そう思った。そして、この子供たちが描いた虹の絵は、あっという間にイタリア各地で見られるようになった。この虹の絵には“Andrà tutto bene”という文字が一緒に添えられている。日本語で「きっとすべてうまくいくよ」。コンテ首相が会見で伝えてきた言葉が、このプロジェクトにも活かされていることがわかる。

 少し前までは、バーリの市長が泣きながらゴーストタウンを案内していたというのに、この国の人々の楽しむことを忘れない精神は見習わなくてはならない。今日のニュースは、はじまりの挨拶「皆さんボナセーラ」もやけに明るかったし、この国の人々からは、皆一丸となってこの状況を乗り越えていこうとする気持ちが感じられる。個人と社会はどちらかを優位に結びつけるものではない。コンテ首相が「ノルベルト・エリアスの言う『諸個人の社会』こそが我が国の強み」と伝えた理由がもうここに発揮されている。

 ひとつ忘れてはならないことがある。私の暮らすエリアで起きたフラッシュモブは、祭りのような騒ぎでもあったけれど、実はその一区画先には救急車が止まっていた。コロナ患者かどうかはわからない。ただ、あのライトが光る救急車と鍋を叩いて盛り上がる住人、そして、天に向かってコロナの終息を願うアントニオ。この光景はとてもシュールだった。でもそれが現実で、そこには一つの温もりがあった。個人のコミュニティでそれぞれが尊重し合い、それぞれの人生を生きている。切り取られた映像や写真だけではわからない現実がそこにある。それはこの場でしか見ることができない。この感覚は、その場でしか感じることができないのだ。