ということで、昨日感染した平凡の続きに向き合っている
こんなにも“普通”に侵されるということは、逆に何かあるからだ

そうは言っても脳が拒否するので、飛ばし飛ばしにはなるのだが、
100ページを過ぎた辺りから、普通に読み進められるようになってきた
作者の独特な言い回しが減って、いわゆる紀行文になったからである

どこかにグッとくる場面があればと待ち構えているが、今のところそれはない
だからこそ、共感にはつながっている

わたしが欧州と日本を行き来する生活を始めた年齢と、作者が欧州で暮らしたときの年齢がほぼ同じということもあるだろう
このような暮らしに至った理由は冒頭に少しだけ記されているが、こちらもある程度は理解できる

それに年代は違えど、ヨーロッパ(特に南欧)は町や人の雰囲気が今と昔で極端に変わることはない
インターネットの普及により何もかもが便利になったり、
そこに流れる空気は変わっても、その根本たるものはしぶとく残っていたりする

これは、不便だった時代にそれなりの長旅を経験している人ならわかる感覚だと思う

そしておそらく、欧州で暮らす以前から移動に慣れていたこと
これもさまざまな土地で暮らすときの気持ちの温度にかかわってくる
その土地の啓蒙的な要素を書こうと思わないことや、旅行者でも定住者でもない感覚など、その辺も共通するのである

その他にも読んでいて学ぶことが、やはり描写が並大抵ではない
プルーストに少し似ているが、影響を受けているのだろうか
そう考えてみると、わたしはまだ『失われた時を求めて』を読み切れていないので、ここにも共通する何かがあるのだろうか

ただ、プルーストの作品は長大で時間の流れに対する思考が複雑なので、これと比べるのはよくないのかもしれない

余談になるが、わたしは『失われた時を求めて』をなかなか読み進めることができないので、ノルマンディーに持参してまで挑戦したのだが、2か月暮らしているあいだにも読むスピードはあがらず、結局はまた第1巻からの読み直しが決定している

いやはや、あと何度これを繰り返したら読了できるのだろう

とりあえずは、この紀行文を読み終えることに集中したい