2022年3月26日、フィギュアスケーターの宮原知子が現役引退を発表した。この日は宮原の24歳の誕生日。彼女が第二の人生を発表することを選ぶのに、これほど適した日はないだろう。そして、引退を発表した直後、スターズ・オン・アイスのカナダツアー全公演への出場をオファーされた宮原知子。これは日本人初の快挙である。彼女には、いずれは医学に携わりたいという夢があるようだが、まずは今後、プロのフィギュアスケーターとしての道を歩まれることを、私は心から嬉しく思う。

宮原知子というスケーターは、唯一無二の存在である。特に芸術面に関しては、世界一のフィギュアスケーターといっても過言ではないだろう。少なくとも私の中では世界一である。とはいえ、私は宮原のスケートを生で見たことはない。グランプリシリーズ2019のファイナルの会場がイタリア・トリノのパラベラだったので、彼女がファイナルに残ってくれることを願ってフリーのチケットを取っていたのだが、残念ながらその年、宮原はファイナルへ進むことができなかった。

Embed from Getty Images

この年の宮原のプログラムは、ショートがエジプト調の曲をミックスしたもの『Yalla, Tabla & Percussion Solo, Egyptian Disco (Buddha Bar edit) / DJ Disse 』、フリーは『シンドラーのリスト』だった。私はこの頃、ポーランドのワルシャワ、クラクフ、ハンガリーのブダペストに滞在して、ホロコーストについて勉強していた。それもあって、ブダペストの後にイタリアへ飛び、宮原のプログラムをトリノで見ることを、当時の目的のファイナルに設定していたのだ。

この『シンドラーのリスト』という映画の楽曲は、もともと心が壊れそうなくらい繊細な旋律ではあるが、宮原のプログラムでは、ラフマニノフの『前奏曲 嬰ハ短調』をミックスしたジョン・ベイレスによる編曲を使用。これにより深みや重みがさらに増している。さらに、この年の宮原のエキシビジョンはエリック・サティの『グノシエンヌ』。この曲は私が一番好きな曲である。グノシエンヌは第一番から第六番まであるが(サティが生前に残したのは、第一番から第三番までの「3つのグノシエンヌ」)、宮原は第一番にフィリップ・グラスの『メタモルフォーシスⅡ』を混ぜた編曲で、静かなる美しい作品を創り上げていた。

Embed from Getty Images

だからこそ、私にとっては宮原の作品を生で見るのにこんなに適した年はなかった。グランプリシリーズの中国杯では、その見事に完成されたプログラムを披露していただけに、その願いが叶わなかったことは残念だったが、この年のファイナルはなかなか見応えがあった。ジュニアで出場した選手たちの中には、今ノリに乗っている鍵山優真もいた。その時から彼は期待されていたけれど、その年は誰もが予想していなかった佐藤駿が優勝し、会場を沸かせたものである。

アリーナ・ザギトワが最下位になってしまったことも、このファイナルでは印象に残っている。四回転ジャンプを当たり前とする今のロシア勢への移り変わりをまざまざと見せつけられ、見ていて辛いものがあったが、彼女は最後まで立派だった。あのトリノでのファイナルは、先日行われた北京オリンピックの結果にすごく繋がっているので、ここに出場者と順位を記しておきたい。

女子シングル
1. アリョーナ・コストルナヤ(ロシア)
2. アンナ・シェルバコワ(ロシア)
3. アレクサンドラ・トゥルソワ(ロシア)
4. 紀平梨花(日本)
5. ブレイディ・テネル(アメリカ)
6. アリーナ・ザギトワ(ロシア)

女子シングル (ジュニア)
1. カミラ・ワリエワ(ロシア)
2. アリサ・リュウ(アメリカ)
3. ダリア・ウサチョワ(ロシア)
4. クセニア・シニツィナ(ロシア)
5. イ・ヘイン(韓国)
6. ヴィクトリア・ワシリエワ(ロシア)

女子シングル (北京オリンピック)
1. アンナ・シェルバコワ(ロシア)
2. アレクサンドラ・トゥルソワ(ロシア)
3. 坂本花織(日本)
4. カミラ・ワリエワ(ロシア)
5. 樋口新葉(日本)
6. ユ・ヨン(韓国)

男子シングル
1. ネイサン・チェン(アメリカ)
2. 羽生結弦(日本)
3. ケヴィン・エイモズ(フランス)
4. アレクサンドル・サマリン(ロシア)
5. 金博洋(中国)
6. ドミトリー・アリエフ(ロシア)

男子シングル(ジュニア)
1. 佐藤駿(日本)
2. アンドレイ・モザリョフ(ロシア)
3. ダニイル・サムソノフ(ロシア)
4. 鍵山優真(日本)
5. ピョートル・グメンニク(ロシア)
6. ダニエル・グラスル(イタリア)

男子シングル(北京オリンピック)
1. ネイサン・チェン(アメリカ)
2. 鍵山優真(日本)
3. 宇野昌磨(日本)
4. 羽生結弦(日本)
5. チャ・ジュンファン(韓国)
6. ジェイソン・ブラウン(アメリカ)

そして、2021年のグランプリシリーズ。新型コロナウイルスの再拡大により中国杯が中止となり、代わりに選ばれた会場がイタリア・トリノのパラベラだった。2006年のトリノオリンピックで、荒川静香が金メダルをとったのもこの会場である。この大会でも鍵山選手は、2019年のグランプリファイナル同様にショートで7位と出遅れてしまったが、今回はフリーで優勝まで巻き返し! ここから彼の勢いは増していく。そして何より私にとっては宮原知子。彼女はこの年のフリープログラム、ジャコモ・プッチーニの『トスカ』を、まさにオペラの本場ここイタリアで舞ったのである。

今回は私が日本にいたので生で見れなかったことを心から悔やむが、あの宮原を見ることができなかった2019年のファイナルの会場で、しかも中国杯の代わりの会場という偶然から彼女がここで滑れたことは個人的にとても感慨深い。この『トスカ』のプログラムもそうだが、ここ数年の宮原のスケートは、フィギュアスケートの芸術の域を超えていた。過去のスケーターにも、カロリーナ・コストナー、アシュリー・ワグナー、ジョニー・ウィアーなど、芸術面で秀でたスケーターはたくさんいたが、フィギュアスケートの域を超えてはいなかった。

Embed from Getty Images

しかし、宮原知子というスケーターはジャンプこそ課題は残るものの、もうそんなことはどうでもよいくらいに美しいのである。手の指の先の先まで美しい。彼女はスタートのポージングに持っていくその瞬間から美しいのである。衣装やメイク、楽曲のセンスも素晴らしい。振付師のローリー・ニコルやトム・ディクソン、ブノワ・リショーの意向もあるとは思うが、宮原自身も積極的に関わっていると聞く。濱田コーチのもとを離れ、カナダに渡ってコンテンポラリーダンスを取り入れ出してからの彼女はさらに魅力が増し、それこそ唯一無二の存在となった。

動と静、間の取り方、研ぎ澄まされたエッジの音で描くステップシークエンス、ナチュラルかつ小柄な体型をもカバーする腕の演技、レイバックスピンの美しさ⋯⋯。宮原の間の取り方には哲学を感じる。この動と静からなる緩急は、日本の文化特有であるとも言える。彼女はその動きをスローモーションで見るかのように、あのスピードの中で表現している。動いているなかで一瞬止めるあの動きは、一つひとつが本当に美しい。美しいという表現以外になんと言っていいのか。すべて見逃したくないと感じるほどに全神経を注いで見てしまう。まさに日本の美、吸い込まれるのである。

Embed from Getty Images

今ではノーミスの演技が当たり前となったフィギュアスケートだが、宮原にミスパーフェクトという異名があるように、失敗しないプログラムを毎回のように滑り続けたのは彼女が初めではないだろうか。それまでの選手たちは、試合で失敗しないほうが珍しかったように思う。特に女子は成長期に体型が変わりはじめるとミスをしやすくなるが、宮原の場合はそれさえも味方につけたように感じる。これは向き不向きがあるので努力の問題だけではどうにもならないが、小柄な体型である彼女は、成長期にひと回り大きくなることで有利になった。

それまでの宮原はどうしてもジュニアの雰囲気が抜けなかったので、表現力がありながらもそれを活かせる体型ではなかった。しかし、成長期にひと回り大きくなると同時にうまい具合に筋肉をつけ、それが色気を生み出した。子供らしさが抜けたことで、もともとある芸術性がさらに目に見えてわかるようになった。その最初のきっかけとなったプログラムが、2015-16シーズンのショート『ファイヤーダンス』ではないだろうか。

2017-18シーズンの『SAYURI』『蝶々夫人』の頃には、もう完全に今の宮原の原型が出来上がっている。その前には左股関節疲労骨折という大きな故障により壮絶なリハビリがあった。平昌オリンピックを目指すことを諦めるしかないような怪我だったと記憶している。だがこれも、今となっては彼女の魅力をさらに引き上げた出来事のひとつであろう。彼女はその厳しいリハビリに打ち勝ち、オリンピックへの切符を手にした。そこからの宮原の芸術性は日を増すごとにどんどん増えていく。2018-19シーズンの『小雀に捧げる歌』『ブエノスアイレスの冬』も、本当に素晴らしかった。

Palavela Arena in Torino, Italy

余談にはなるが、グランプリファイナル2019の表彰式で、メダル授与のあとに選手たちが手を振りながらリンクを周回してくれるとき、私は羽生選手の凄さに気づいてしまった。スケーターとして人間として、彼が素晴らしいことは重々承知していたが、私はこの時、天皇のような神がかった領域を羽生選手に感じたのである。というのも私は、誰かのファンになるという経験をこれまでの人生でしたことがない。だからアイドルやミュージシャンを追いかける人の気持ちがわからない。

だけどあの日、羽生選手が会場に向かって手を振ったとき、私は反射的に手を振り返してしまった。これには自分が一番びっくりして、周囲を確認してしまうほどだった。すると私の横にいたジェンダーレスな男性が、羽生選手が手を振ってくれたことに興奮して飛び跳ねて喜んでいた。はじめての経験で少し戸惑っていた私だけど、その人の無邪気な姿を見て「わかるわ〜」なんて共感してしまったのだから、これまた私という冷めた人間の、新たな一面を引き出してくれた羽生選手に感謝したい。そして、現役時代は生で見られなかったけれど、プロフィギュアスケーター・宮原知子の演技を世界のどこかで見られる日が今から本当に待ち遠しい。私が人生で初めてファンになったといっても過言ではないあなたのスケートを。