今回、特集第1号の“Hidden Christians in Nagasaki”を掲載するにあたり、遠藤周作の小説『沈黙』や、それを原作としたマーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙 -サイレンス-』と、再度向き合うことになった。過去にこの作品たちと出会った時も、たくさんの衝撃と“ずしん”とした重みを私に残していったが、今回はそれよりも、もっと複雑な感情が交錯する結果となった。
現場に足を運び、多くの時間をこの題材に費やしてきたことも一つの要因だが、ここ2〜3年はコロナ禍を含めてさまざまな変化と向き合う機会が多かったので、その影響も少なからずあるのかもしれない。どちらにしろ、4月に長崎を取材してから数か月経ち、ようやく一旦ここから離れられそうなので、ひとまず今の私が感じる沈黙について、ここに書き記しておきたいと思う。
遠藤周作の沈黙は、江戸から明治にかけて約250年続いた禁教時代の中でも、特に厳しい弾圧が行われていた「島原の乱」前後の話が軸となっており、この時代に来日していた宣教師の目線で、当時のキリシタンがいかに過酷な環境下で信仰を守り抜いてきたのか。また、日本におけるキリスト教がどういったものなのかを描いている。
恩師であるフェレイラが棄教したという信じられない事実を確かめに、主人公の神父・ロドリゴとガルぺが島原の乱が収束したあとの長崎に潜入するのだが、日本へ向かう途中にマカオで出会ったキチジローと、トモギ村や五島の潜伏キリシタンを通して、自分たちが信じてやまないキリスト教に、そしてイエスという存在に疑念を抱いていくロドリゴの心境こそが、この作品の主となる部分でもある。
ロドリゴに棄教を迫るにあたり説得したフェレイラの言葉だけでなく、井上筑後守や通辞の言葉も日本人である私にはとても重く、仏教やキリスト教という枠を超えて、人間とは何なのかについて考えさせられる作品だった。あまりに悲痛で残酷な世界に身を置いたとき、これまで信じてきた核となるものの揺らぎと戦う神父と、なお一層それを信じ、殉教して天国へ逝こうとする信徒。ある意味同じで、ある意味真逆でもあるその過程は、何度も絵踏みして転び、良心の呵責に苛まれながらも生を選ぶキチジローの姿が物語っているように思う。
なぜなら、潜伏キリシタンが貫いてきたものは果たして信仰なのか。という問いが、私には残るからだ。あの地獄のような時代に、そもそも信念を曲げずにいられるのだろうか。殉教したら天国に行ける、天国には今のような苦しみはない、また愛する家族とともに暮らせるなどといった教えはキリスト教の概念とは異なるし、今の世界が過酷すぎるがゆえにそう信じるよう諭されてきたのか、うまく訳されずにそう伝えられてしまったのか⋯⋯。この歪められた信仰の形について、作品の中でも井上筑後守や通辞、フェレイラがロドリゴを問い詰めているが、それを否定するロドリゴ自身もそのことに気づき、懸念を抱いている場面がいくつか描写されている。
この時代の長崎は、キリシタンへの迫害だけでなく、年貢を納めることのできない領民に対しても苛烈な拷問を加えてきた。特にその拷問を激しく行なっていたのが、松倉重政とそれに続く息子の勝家が治めていた時代の島原藩で、映画『沈黙 -サイレンス-』の冒頭にでてくる雲仙地獄での熱湯拷問も、松倉重政が考案したものだ。作品の中では、井上筑後守の存在が大きく取り上げられているが、松倉家や当時の長崎奉行だった竹中重義がしてきたことは極めて残忍である。
しかも、松倉家の年貢の取り立ては、通常の米や農作物だけではない。窓の数に対して窓税、家に棚を作れば棚税、子供が産まれると頭税など、事あるごとにさまざまな税を新設していた。島原城の新築だけでも領民の負担は大きいのに、幕府への忠誠心をただ示したいがために江戸城の改築まで請け負い、二代に渡って禄高に見合わないことばかりしてきた松倉家。その見栄のツケを払わされる領民の年貢率は九公一民だったともいわれており、さらには、納められない村の庄屋の妻や子供を人質にとり、蓑を着せて火をつけるなどの拷問を加え、その焼死する姿を、祭りの見せ物かのように“蓑踊り”と呼んで楽しんでいたのである。
前述した雲仙での拷問なども、時の将軍だった家光にキリシタンへの拷問が甘いと促されたことが始まりだ。一代目の重政に関しては、奈良の五条新町の発展に従事していた頃とはまるで別人で、島原ではとにかく幕府にどう見られるのか、自分のことだけを考える人間だった。
この地域の領民はキリシタンが多く、家光はキリシタンを心から嫌っていたので、家康やその前の秀吉が行っていた植民地化への危機対策とはまた別の、しかもそれとは比べられないほどの苛烈な弾圧を行なっていく。そうしたことに耐えられなくなった領民が起こした一揆が「島原の乱」である。しかも勝家は、この百姓一揆をキリシタンが起こした暴動だと家光に報告する。そしてより一層、キリシタンへの迫害が強くなっていくのだ。
作品の中のフェレイラは実在する人物で、宣教師やキリシタン大名だった高山右近など主となる人物が、1614年にマカオやマニラに追放されたとき、密かに潜伏司祭となって日本に残った神父のうちの一人である。そしてその頃の西欧は、宗教改革の真っ只中。国家を背負って布教で来日している宣教師たちが、カトリックとプロテスタントの戦いから影響されていないとは言い難い。純粋にキリスト教を信じているだけでなく、そのような時代背景があるなかで棄教したフェレイラからも、いかに当時の日本が残酷だったのか思い知らされる。
ただ、ロドリゴやフェレイラは本当に棄教したのか。そして、遠藤周作の原作を読んだ人なら、映画のラストシーンについても気になるところではないだろうか。彼らは沈黙を続けるイエスと、自分たち宣教師が転ばないために拷問を続けられる信徒の姿に耐えかねて棄教することになるが、これは結果、特にロドリゴに関しては、カトリックの在り方に対して疑問を持ったのではないだろうか。
カトリックは教会を通して神と対話する。つまりは、その間を取りもつ神父という存在が、これだけ過酷な状況下では意味をなさないと悟ったのではないだろうか。神との対話どころか、自分の存在そのものが信徒を死に追いやってしまう。自分がたどり着いたと思っていた境地は、生きてきた場所が平和だったからそう思えたのであって、そもそもイエスの領域にはまったく足を踏み入れていないことに気づかされたのではないだろうか。
また、日本のキリシタンは、イエスよりも母なる存在のマリアを崇拝している。ロドリゴにとって、当初それは疑問に感じたことだろう。しかし、救いようのない苦しみの前では、痛みを共有することでしか寄り添えない母のような存在こそ必要で、イエスが沈黙する理由はそこにあると気づいたのではないだろうか。要らぬプライドを捨て、ただ生きることで痛みを共有し、純粋に守るべき人を守る。それが真に生まれ変わるということならば、自らも潜伏キリシタンとして生き、心の中で神との対話を続けていこうと。
そう考えると、ラストシーンのロドリゴの葬儀で、妻がそっとロドリゴの手に隠したキリスト像が何を意味するのか。原作となる小説の結末や、ロドリゴのモデルとなったジュゼッペ・キアラの人生とくらべても納得することができる。このシーンは原作には描かれていないシーンだが、遠藤周作は、スコセッシとの会談で自分が意図する考えを細かく伝えたとのことなので、ここにも反映されていると思いたい。
ちなみに、日本版の篠田正浩監督の映画『沈黙 SILENSE』が描くラストシーンに関しては、どう解釈するかよりも、その時代の映画のあり方など、どこまで解読していいか悩むところだ。脚本には遠藤周作自身も参加しているが、正直、彼の意向を聞いてもらえなかったのではないかとさえ感じている。
特集号の“Hidden Christians in Nagasaki”にも記載したが、何か一つのことを信じぬく心は美しくもあり恐ろしい。私は信仰を持っていないので、何度考えてもこの時代のキリシタンの行動には共感できないし、もし犠牲を払ってでも守りたい何かがあったとしても、キチジローのように何度も棄教して守ることを考えるだろう。沈黙の中の彼はとても弱く、すべてを肯定することはできないけれど、決して否定することもできない。
日本が特殊だということは、世界を知れば知るほど、現在においてでも感じることである。作品の中でも語られる「日本は沼地だ」という言葉が示す意味や、キリスト教の概念を自分たちの信仰に都合よく変えていってしまうということも妙に納得させられる。やはりそこには仏教の影響だけでなく、そう簡単に新しいものを取り入れさせてはくれない空気感、そして村八分という現実。これは、信仰を守り続けるキリシタンにとっても、大いに関係したことだろう。
私は今、この原稿を蝉の鳴き声が聞こえる部屋で書いている。映画を見た人なら、きっとそれが何を意味するのかわかることだろう。蝉の音は昔から苦手だが、これを書いている杪夏の今、まさに私が描いてきた作品のイメージと重なり、少しばかり恐怖を覚える。時折聞こえてくる鳥の声と、その他の雑音が入り混じり、言葉では言い表せないような嫌悪感がよみがえる。どうやら私は、まだまだこの題材と向き合うことになりそうだ。