連載『マイ・コビッド・ナインティーン』は、欧州と日本での引っ越し生活を第二の人生のライフワークとする私が、これまでに体験してきたコロナ禍での暮らしと、その暮らしを中断せざるを得ない現状、そして復活させるまでの日々を綴るエッセイです。

 実家に戻ってから半月ほどは、終了するメディアのリライト作業で忙しかった。外出自粛要請の影響を大きく受けたメディアの中には、その路線を変更しない限り、新しい記事を書くことが許されないメディアもあった。そのようなメディアは、これまでの取材をもとに別の企画を立てて対応したり、過去の記事をリライトするなど、できることに限りがあった。私が携わっていたメディアでも、残された数人の編集者とライターでこの作業を続けていた。配信を終了するとはいえ、今後もこれまでの記事を何かに役立てる予定だったのだろう。しばらくは外を出歩かないでと家族から言われていたので、またも隔離期間のような日々を過ごしていたのだが、今回はこのラストスパートのおかげで何とか気を紛らわすことができた。

 新型コロナウイルス以前に一度帰省したときは、作業をするのに広めのスペースが必要だったので、ダイニングテーブルを使わせてもらっていたのだが、今回はそこまでのスペースは必要ない。だが父の行動にはこれまで以上に気を遣わなければならない。この場所は父の新聞を読むスペースでもあるので、普段の流れのままストレスなく過ごせるよう、私は父から目の届かないエリアにある客間の一室で作業することにした。父は一分単位で自分の行動を管理しているような人間なので、その鬱憤が蓄積されないようとにかく気をつけた。時々、犬が遊びにやってきてくれるので癒しになった。

 犬の存在は本当に大きかった。この子がいなければ今頃どうなっていたことだろう。人間をよく観察する子なので、いろいろと問題のある我が家で暮らすことは犬にとっても大変だと思う。皆、犬好きなので大切にされていることに変わりはないのだが、犬も人間と同じように共に暮らす人々のメンタルを共有していると思うので、そこは気をつけなくてはならない。それにしても、人間でいることに不自由するタイプの父と私は、犬という存在がそばにいてくれるだけでいかにありがたいか。これは亡き祖父もそうだったのではないかと思う。当時の犬は外飼いだったが、祖父の犬好きにより我が家にはずっと犬がいた。

 そこで私は気づいたことがある。この家は少しずつ蝕んでいくシロアリなのではなく、最初から壊れていたのではないだろうか。いつからそうなのかはわからないけれど、祖父に関しては戦争も関係することだろう。祖母に関しては祖父の元に嫁ぐ前からそうだったのかもしれない。というのも今回の滞在中に、祖母がどういう家庭で育てられたのか。そしてどういう人生を送ってきたのかを、少しだけ知ることができた。それを聞いたとき、すべてが腑に落ちる思いだった。だからといってそれを私に対する攻撃につなげていいかはまた別の話だけど、彼女の人格が歪んでしまうような出来事があったことだけは間違いない。

 そして、このような祖父と祖母に育てられた父が生きやすい人間であるはずもなく、そしてその血を脈々と受け継いでいるのがこの私なのである。つまり、壊れたもの同士がずっと壊し合ってきただけなのだということに気づいたのである。母と姉、妹はまともだが、やはり世間とはちょっとずれているように思う。私たち姉妹は皆、一度は家を出たのだが誰も結婚しておらず、そこには何かしらの苦悩が見え隠れしているような気がする。このような家庭で育つということはやはり何かが欠けてしまう。両親とりわけ、いつも一生懸命だった母には申し訳ないが、そんな風に感じてならない。

 しかし、それに気づいてからの私は父に対する見方が少しだけ変わった。もちろん、そこに至るまではそんな簡単なことではなかった。最初に互いの関係が限界を迎えたのは6月。帰省してひと月ほど経った頃である。私は昔のように自分の部屋でご飯を食べるようになり、仕事場も客間の一室から二階にある自分の部屋へと移動した。そして行動の時間をずらし、できるだけ顔を合わせないよう努力した。私がご飯を持って二階に上がる姿を、犬はいつも不思議そうに見ていた。7月には祖父母の法事があり、それをきっかけにまた一緒にご飯を食べることに挑戦したのだが、その後は9月の私の誕生日にまた勃発。そこからは年末まで無視し合う関係が続いた。そのほうが互いに平和だからである。

 だけどそれは私にとって過去の記憶を蒸し返すようで、どんどん心が傷ついていく。階下から聞こえてくる話し声を、途切れ途切れに耳にしながら一人で食べるご飯がどんなに虚しいものか。中学、高校の頃は祖父母が一番の原因でそうせざるを得なかったけれど、彼らがいなくなった今でもそれが続くのかと、正直、何度涙を流したことかわからない。普通に一般家庭のように皆で食卓を囲むことは、私には一生無理なのだろうか。やはり乗り越えることはできないのだろうかと自問自答を繰り返した。私は年末を迎えることがどんどん苦痛になっていった。正月にこの状態はよくない。年を越す前にこの家を出た方がいいのではないか。そう毎日考えるようになっていった。

 とはいえ、ここに戻ってきた理由が理由だけに今はまだ出ていくことができない。ここで居候させてもらえるまでに増え続けたマイナス分を、まずは取り返さなくてはならない。しかし、目先の仕事だけをやっていたらこの先はない。そこで私はまずこのサイトを立ち上げた。以前にも一度立ち上げる準備をしていたのだが、新型コロナウイルスにより内容を一から練り直す必要があった。このサイトに収益を見込んでいるわけではない。ではなぜ立ち上げたのかというと、実績の少ない私は何かを残していく必要があった。現にこの数か月後、私は過去の実績をすべて失うことになる。これは年が明けて気づいたのだが、これまで携わってきたメディアのうち二つはサイトを消去。一つは違う形態へと変更されていた。ウェブメディアというのはなんて儚い存在なのだろうと、新型コロナウイルスで思い知った。このサイトはまだ軌道に乗っていないが、それでも立ち上げた意味がすでにある。これらの記事や画像の著作権はすべて私にあるからだ。

 その後はとにかく本を読み、新しい知識を吸収することに時間を使った。犬の散歩以外は部屋に閉じこもり、同時に私は哲学とも向き合った。このままではダメだ。怒りとは何か、自分をコントロールすることとは何か。イタリアで過ごした日々が、家族とは何か、地域社会とは何かについて考えさせられる日々だったので、その感覚も忘れてはならないと思っていた。つまり、家族との関係を見直すのにこんなに適したチャンスは、きっともう訪れることはない。新型コロナウイルスによって仕事や暮らしその全てに影響が出なければ、こんなにも長くここで父と向き合うことなど絶対にあり得なかったからだ。

 私の脳は、本の内容を読んだ端から忘れていくような、記憶の中枢は本当にあるのかと疑いたくなるような脳なのだが、記憶はできなくても感覚は残る。この記憶という部分について結構悩み、学ぶことをやめた時期もあったのだが、両方を体験した今、学ぶことは精神のコントロールにもつながる。だからもう記憶ができない自分に疑問を抱くのではなく、そんなことすら考えなくてよいという結論に至った。少なくとも20年は不安定な精神とつき合ってきているので、その間に記憶の中枢がやられた可能性もあるし、自分の能力に見合っていないことばかりに興味を抱いている可能性もある。

 でもそれが自分であり、変えることはできない。とてもしんどいし、今でもコンプレックスではあるけれど、自分の能力以上のことに興味を持ってきたからこそ、今の自分があるとも言える。だから何らかの形でアウトプットすること。最近はこれを大切にするようになった。たとえば今回の犬と哲学だけに向き合う時間は、前回で伝えた空海や秦氏に関する発見とともに父との関係に大いに役立ったし、犬は役に立つとかそんな言葉では片付けられないほど、いつ何時も心の支えとなってくれた。そして大晦日の夜、私はこれまでにない勇気を振り絞って、また皆と一緒にご飯を食べたい旨を父に伝えたのだった。

 そしてもう一つ。犬は私に、近所の人たちと接することを教えてくれた。犬が誰にでも視線を送って挨拶するので、その一つひとつの出来事を父や母に話すうちに、自分が生まれ育ってきた環境にはどういう人がいて、この人たちにはこういう過去があって、でも今はこういう形で暮らしているといった、さまざまな家庭の事情も知ることができた。それらは地域社会によって守られてきたことを示していた。イタリアで学んできた“諸個人の社会”とはまた違う、日本ならではの、というよりはこの地域ならではの考えさせられるコミュニティ。しかも、思っていたよりも温かなコミュニティが、今まさにここにあるということを知ったのだった。

 当時、私が暮らしていた頃とはずいぶん町の雰囲気も変わり、今は周辺にたくさんの家が建っているが、この土地の中心となるのは、今でも私の家や父の従姉の家など昔からあるいくつかの家とその家族であり、その中に一人、ムードメーカーとなるおばちゃんがいる。父の従姉にあたるその人物は、おしゃべり好きでツッコミどころ満載なのだが、とてもフェアな人間であり、新しくこの地に越してきた住民からも慕われている。それこそイタリア人みたいな人で、彼女がいるからこそ、このコミュニティが成り立っていることがよくわかる。昔からこのおばちゃんのことは好きだったが、当時の私は十代だったこともあり、このおばちゃん以外の近所の人たちと積極的に交流してこなかった。

 しかしである。今は犬のおかげで家族がびっくりするほどこの地域の情報に詳しくなり、いろいろな人と接するうちに、犬仲間のおじいさんまでもが出現した。その人は偶然にも父がよく話す人物であった。きっと父は、それも嬉しかったのではないだろうか。もともと父と私は、遺跡など好きなものが共通している。だから本来であれば、家族の中で一番気の合う相手だとしてもおかしくない。だがそこは似て非なるもので、相違点の中には絶対に譲れない考え方までもが含まれているから厄介なのだ。でももう、それを言っても仕方のない年齢に父はなっている。父の兄がさっさと家を出てしまったので、京都での出張期間を除いてずっと地元で過ごしてきた父は、やはりこの土地を愛しているのであり、そこに馴染めない私のような人間が嫌だったに違いない。犬はその部分についても、やさしく私に教えてくれたのだった。