連載『マイ・コビッド・ナインティーン』は、欧州と日本での引っ越し生活を第二の人生のライフワークとする私が、これまでに体験してきたコロナ禍での暮らしと、その暮らしを中断せざるを得ない現状、そして復活させるまでの日々を綴るエッセイです。

 フランスから帰国したのは11月中旬、全国的に気温が下がってくる季節だった。日本でも再び感染者数が増え始め、実家のある県でも陽性者がちらほら確認されるようになっていた。今回は成田空港に到着する便だったので、空港で陰性結果をもらった後、近くのホテルに一泊し、レンタカーで東京の隔離先へと向かった。この頃の日本の空港は、唾液を使ったPCR検査に変わっていたため、書類の提出や検査結果が出るまでの待ち時間はあるものの、約2時間ほどで空港を出ることができた。空港近くのホテルに一泊したのは、飛行機の到着時刻の関係でレンタカー会社の営業時間に間に合わなかったからだ。

 前回の帰国時に経験した大阪での隔離期間が、そこまで辛いものではなかったので、今回もアパートメントさえ確保できれば、東京だとしてもそこまで変わらない生活を送れるだろうと高を括っていたのだが、今回はそれとは真逆の、苦痛以外の何者でもない想像を絶する日々だった。時差ボケの影響もありどの時間帯でもほとんど眠れず、仕事も手につかず、脳と心臓が締め付けられるような2週間。気晴らしにテレビでもとリモコンの電源を入れると、「東京オリンピックを目的にやってくる外国人の観客は、14日間の待機措置を免除する方向、公共交通機関も利用可能な方向で検討する」という、今の私の状態をあざ笑うかのようなニュース。さらにそこに飛び込んできたのが、「やっぱり実家には帰ってこないでほしい」という家族からのメッセージだった。

 あれほど帰国前にやり取りをして、空港で陰性結果をもらい、東京での隔離と実家のある県での隔離を各2週間ずつ行ったのち、皆が安心してもらえる状態で一時避難させてもらうことに承諾を得ていたのに、その送られてきたメッセージにはたくさんの言い訳がましい言葉が並べられていて、挙げ句の果てには父とどう上手く暮らしていくのかという、結局そこなの? という喪失感を抱かざるを得ないメッセージだった。帰国経路などから個人が特定されて嫌がらせを受けることのないよう、田舎ならではのありとあらゆる配慮を行い、とにかくどんな指摘をも跳ね返せるようなこれ以上にない形をとってきたのに、こんなことならばリスクを背負ってでもブルガリアに飛べばよかった。私は自分の心が凍りつくのを感じた。

 確かに私と父は相性が悪い。だから姉や妹が危惧するのもわかる。父は普段はいい人だがお酒を飲むと脳が乱れる。そうなるともう、いくら私が気を遣ってもどんな言葉も通じない。こちらの発言を逆さの意味で捉えられることなどしょっちゅうで、言ってもいない言葉が幻想のように口をついて出てくる。新型コロナウイルスが世界を襲う少し前に滞在したときも、最終的には口を聞かない状態にまで陥り、今のような引越し生活を送る前に東京で暮らしていたときも、年に一度の帰省にも関わらず、穏やかな時間が過ごせるのはたったの一日。だから最初の数年こそ二泊していたが、徐々に一泊で東京に帰るようになっていた。この暮らしをする数年前にはその一日すらもたなくなり、私は出ていけと言われ、夜に急遽ホテルへ移動したこともある。その後は数年帰省できず、その間に私の精神はさらに悪化し、その主な要因はもちろん彼ら以外にもあるけれど、最終的にこの暮らしをするに至った。

 だからわかっている。私が実家で過ごすことさえ許されない人間であることは。母や姉、妹もしょっちゅう父とは喧嘩になっているが、私の場合は前回書いたように、父の祖父母からの攻撃など父方家系とはずっと相容れない生活を送ってきた。だから彼女たちのように、朝になって父を許すことなどそう簡単なことではない。言い合いの最中に出てくる言葉も、彼女たちとの間で繰り広げられるやり取りよりずっと傷つく言葉が多いし、父もまた亡き祖父母のように、私が関係なくとも私のせいにする傾向があった。そんな風に許すからまた繰り返されるのだと、私は彼女たちを責めたこともあった。

 しかし、どうしようもないのだ。私は結局、実家には戻れないまま、東京での隔離が終わると同時に金沢へ移動した。たまたま安い物件が見つかったからだ。あの東京での隔離期間は、正直今でもトラウマになっている。当時暮らしていた頃の精神状態にいつ戻ってもおかしくないような、何度発狂しそうになったかわからない日々で、とにかく一刻も早くこの場を離れなければと、隔離が終わるとすぐに一件用事を済ませ、その足で新幹線に飛び乗った。金沢はそんな私の身体を浄化するかのように澄んだ空気で迎えてくれて、その日からは自分でも驚くほどよく眠れるようになった。金沢城公園からすぐの上階に滞在していたこともあり、その部屋に流れてくる気そのものがすごくよかったのだと思う。

 年末が近づいてくるとその部屋には次の予約が入っていた。私はまた移動を余儀なくされ、なんとなく馴染みのある場所にいたくて京都へと向かった。きっとお正月を知らない土地で一人寂しく過ごすことに抵抗があったのだと思う。年が明けると日本もまた緊急事態宣言が発令されて、自粛生活の日々が始まった。私は京都で借りたアパートメントを延長しながら、不要不急の外出・移動の自粛といった政府の要請に従った。春になり宣言が解除されると、京都の町はポカポカした陽気に包まれて、梅に椿、そして例年よりも早く咲き始めた桜に彩られ、それはそれは美しかった。

 初夏から夏にかけて滞在した京都ではお寺が身近な存在となり、幼い頃に暮らしていた町を訪れた。それは今回の京都にも通じていて、そこで私は空海や秦氏の存在を意識するようになる。私は信仰を持っていないが、ずっと祈りの場に縁を感じてきた。最初はカトリックの教会だったが、さまざまな世界を訪れてその土地の信仰に触れるうちに何かが違うような、でも繋がっているような不思議な感覚を抱くようになっていた。その感覚が、空海や秦氏の存在に触れることで一気に繋がったのだった。あくまでこれは個人的な感覚に過ぎず、血のつながりが判明したとかそんな大それたことではない。単に自分の中で追いかけてきたことが、ここにきてパーンと繋がっただけで、それは自分のルーツとなるものが急に目の前に現れたような、そんな発見に近いものだった。

 そしてこれらの発見は、今後の試練となる父との生活にも大いに役立った。私が生まれ育った四国という土地自体、空海や秦氏と関係が深い場所であり、だからこそこの発見があるかないかでは、この土地で暮らすことの意味まで変わってくる。結局、京都には3か月ほど滞在し、その後は活動を再開すべく奈良へと移動。長崎での取材を経て九州で過ごしていた。しかし、この頃になるとメインの収入源となる会社からも、その自社メディアを終了する知らせが届いた。担当の編集者さんもびっくりするほど急な展開ではあったが、このご時世に、最後の最後までライターとして残してくれたことに感謝した。

 だがついに生活ができなくなる。ずいぶん前から毎月マイナスではあったのだが、ある程度入ってくるのとないのとではまったく状況が異なる。移動生活の私には家賃補助も出ないので、今回は有無を言わさず実家に戻ることが決定した。さすがに家族も受け入れるしかなかった。緊急事態宣言が明けた2021年のゴールデンウィークは田舎に帰る人が多かったので、職場や近所の目を気にしなくてよい風潮が少しずつ日本にも流れ始めていたこと。私が戻るのはそのゴールデンウィークが明けて少し経ってからで、その頃には世間の移動も落ち着くこと。こうしたことが安心材料となり、もちろん最大の父の問題は残されているのだけど、私は実家のある県の、しかも人の多い県庁所在地を避けた土地で、今回は周辺に自然しかないので少し緩めではあるが、またもや2週間の自主隔離期間を経て、ようやくその敷地を跨ぐことを許されたのだった。