連載『マイ・コビッド・ナインティーン』は、欧州と日本での引っ越し生活を第二の人生のライフワークとする私が、これまでに体験してきたコロナ禍での暮らしと、その暮らしを中断せざるを得ない現状、そして復活させるまでの日々を綴るエッセイです。

 スペインへの入国には、欧州域内・域外問わず「SpTH=Spain Travel Health」という健康管理のための登録フォームを提示する必要があった。フランスでの入国手続きはいつもと変わらずで、さすが自由の国フランスと思いながら入国した。でもひとつ感心したことは、エールフランス系列の航空会社は布マスクが禁止であったこと。サージカルマスクの着用が義務付けられており、これは世界でも早い取り組みのひとつであったように思う。座席の間隔もきちんと取られており、この辺りにも日本との違いが見られた。日本でも一部の航空会社が一定期間このような措置を施していたが、7月にはすでに解除されており、マスクに関してはずっと布マスクが可能であった。

 セビーリャの空港に到着して、いつものように皆が流れるままに通路を歩いていくと、前から乗客が器用に一定のリズムで後退りしてくるので何かと思いきや「止まりなさい。距離をあけなさい。ここで一人一人SpTHを確認します」。スペインはこういうところが意外と厳しい。イタリアもそうだが、特にスペインは秩序を守るということに対して母親が子供に注意するようなきつめの叱り口調で対応してくる。ラテン国の中でもフランスはもう少し自由だが、こういった自由の裏にあるシンプルなその場だけの締め付けは、理にかなっていて好きである。

 到着したセビーリャの町は、バカンスシーズンということもあり閑散としていた。中心部にはそれなりに人がいるものの、やはり今の時期はビーチが人気で高が知れている。ただその割には営業しているお店も多く、バルも思っていた以上に開いていた。ロックダウン明けということもあるのだろう。営業できるうちに少しでも稼がないとという心理が働いていたように思う。新型コロナウイルスの感染対策も、お店に入る度に消毒をしているか入念にチェックされる。つい忘れようものなら「マダム、消毒を」という言葉、もしくは消毒そのものを持ってこられる。これは年齢層関係なく、アパレルショップや日用品店などほとんどの店で徹底されていたように思う。

 セビーリャで借りたアパートメントは周辺の環境がとてもよく、東京で例えるならば南平台や松濤といった中心部のすぐそばにある閑静な住宅街といった雰囲気。一番近くにあったスーパーも小さい割には品揃えがよく、セビーリャの中では少し高めに感じるが、スペインは近隣国に比べて物価が安い。国内で比べてみてもバルセロナやマドリードより安いので、質のよい生活を送ることができる。普段の生活に欠かせないワインショップやベーカリーも、近所にある店のセンスがよかったのでそれはそれは快適であった。なかでもアンダルシア産のワインを中心に取り扱うワインショップは大のお気に入りとなり、試飲もさせてくれるのでよく通った。

 この地方はアフリカ大陸に近く、イスラム文化の影響が色濃く残っている。この地で育つ植物や歴史的建造物も、他のスペインとはまったく異なる。さまざまな木や花に出会えるムリージョ庭園はそれはそれは美しく、朝の涼しい時間に散歩するのに打ってつけ。アルカサルというムデハル様式の宮殿は世界遺産にも登録されており、セビーリャの大聖堂と共に観光スポットとして有名だが、月曜日には無料で入れる時間帯がある。正確には1ユーロの税金と予約が必要だが、16世紀のタイルで彩られた豪華だけれど削ぎ落とされた心から美しいと思えるこの宮殿に、近所を散歩する感覚で出かけられるこの生活は、どこに部屋を確保するかで随分と変わってくる。

 しかし、アンダルシアは暑い。暑さのピークこそ過ぎてはいるものの、8月半ばを超えた今でも日中の気温が40度前後にまで達する。正午から夕方にかけては熱中症のリスクがあるため、朝の涼しいうちに散歩がてら運動して、昼前には部屋に戻り仕事をする日々。だが日中と朝晩の寒暖差が大きいため冷房はほとんど必要ない。アパートメントの構造が、中庭を挟んで風が抜けるよう造られているからであろう。セビーリャ周辺の街には、グラナダやコルドバなど見どころも多いが、今回私はセビーリャから一歩も動かなかった。感染リスクを避けるためというよりは単に気分的に。こういうところがやはり生活であり、気分が乗らないと一切遠出しないのである。

 それにしても、セビーリャは本当に暮らしやすかった。私はこの引っ越し生活の中でいくつかお気に入りの町=もう一度暮らしたい町のリストが少しずつ出来上がってきているが、その中でもセビーリャは上位に位置する。この後に移動するフランスのノルマンディーはその上を行くが、セビーリャはクオリティーが高い。それは先に述べた近隣の店だけでなく、ここで暮らす人々も含めて街全体にいえるのではないかと思う。特にバルに関してはスペインのなかでもトップクラス。味だけでなく、雰囲気の良さやいい塩梅の土着感、それでもって価格が他より安いのである。

 セビーリャでひと月ほど暮らした後はフランスに戻り、ノルマンディーの小さな町で過ごしていた。今回は、オンフルールとル・アーヴルでひと月ずつ。この町は公共交通機関のバスで移動できる。ここでもずっとスーパーやベーカリー、ワインショップ、カフェなどを行き来するごく普通の生活。カブールやウルガット、ドーヴィル、エトルタなどのビーチに気分転換に出かけることはあっても、そのほとんどは市内を走るバスで移動できる。時間で言うと30分〜1時間程度の距離なので、これまた東京で例えるならば、渋谷からお台場の海に移動するくらいの感覚である。

 ル・アーヴルで過ごしている最中に、フランスは2度目のロックダウンに突入したので、また家と生活必需品を買いに行くだけの生活を強いられることになったのだが、今回滞在しているフランスは、自宅から1キロかつ1時間以内の散歩が許されている。それもあって、もちろん監視があるので厳しいことに変わりはないのだが、週一回程度のスーパーへの買い出し以外、家の周辺200メートルしか散歩できなかったイタリアでのロックダウンに比べると、とてつもなく自由に感じられた。レストランやカフェなどの飲食店は今回も休業を余儀なくされるが、学校や工場は閉鎖されないので、前回ほどの息苦しさも感じない。しかも今回は、距離的にギリギリ海まで行くことができる。実はこうなることをある程度想定して、部屋を選んでおいたのである。

 欧州は日本に比べて冬になるのが早い。湿度も低く乾燥しているので、気温が下がってきたことでウイルスにとっては良い環境へと突入する。これが今回の感染拡大の一番の要因であり、こうなることは以前から囁かれていたので、欧州各国は政府も国民もある程度の覚悟はあったはず。もちろん、夏に感染者数が劇的に減ったことで気が緩んだことは否定しない。フランスやイタリアは、この夏のバカンスを国内で過ごした人が多かったようだが、欧州各地での夏の感染者数と彼らのバカンスのやり方を考えれば、行き先を含めてそこまでは関係なく、ロックダウンによる反動で人生そのものを謳歌したこと。これが感染拡大に一役買っていることは、気温の低下という大きな要因に加えて間違いない。でもだから何という話である。

 日本ではすぐにバカンスや若者の行動だけを問題提起とし、メディアがその一部分だけを切り取って報道しているが、実際はマスクをして気をつけて行動している人が国内外問わずほとんどであり、私が見てきた限りでは、航空会社も小売店もスーパーも欧州は日本同等もしくはそれ以上に対策していた。フランスはイタリアやスペインに比べると緩めではあったが、彼らはきちんと言葉に出して注意もするので、ある部分においては日本より厳しいといっても過言ではない。それなのに、日本の報道の多くは2020年の春から思考が停止したまま。それどころか、新型コロナウイルス以前の欧州のイメージをそのまま引きずって報道している。大切なことはその先にあるのに、ずっと立ち止まったまま、答えのない議論だけをし続けている。これは、本当に世に言う平和ボケの弊害であると私は思う。

 日本は平和である。それは本当に素晴らしいこと。でも平和に怠けてはいけない。平和すぎるがゆえに大切な感覚を失っていることにもっと気づかなくてはならない。日本は今回の新型コロナウイルスでも、この先どうなるのかわからない、たくさんの人が桁違いに亡くなっていく感覚を本当の意味で理解できていない。あの津波を経験しているにも関わらずである。だから今を謳歌するという感覚もわからない。新型コロナウイルスは簡単にはなくならない。厳しい制限措置とそうでない期間のメリハリをつけないと、世の中は別の意味でも死んでゆく。その最初の緩める期間がこの夏の期間であり、また冬から春にかけて我慢するのである。その繰り返しで乗り越えていかないと身が持たない。そして日本は、ほとんど何も経験できていないのに自分たちの国を持ち上げすぎる。世界をきちんと見ていれば、日本はたまたま遺伝子的なことか何かで今回は運が良かっただけということがわかるはずだ。

 人間は本当に厳しい状況に置かれると、今を必死に生きなければと思うようになる。今を大切に生きようと思うようになるのである。だからこそ周囲への思いやりや助け合いの精神が増える。生温い世界だけで生きているとその感覚は絶対にわからない。それは新型コロナウイルスだけではない。戦争やペストなど過去の歴史を振り返ってほしい。文学やアートなどの優れた作品が出てくるのも、これまでにない哲学が生まれるのも、大きな変化があるのは皆、大きな悲劇を経験するからである。そして、その一つひとつの経験に対して、周りがこう考えるからではなく自分はどう思うのか。意見が違う場合はそれはなぜなのか。互いを尊重し合い話し合うこと。そういった行動を長い年月をかけて重ねてきたからである。アメリカという国がちょっと常識では考えられないような逸脱した行動を起こしがちなのも、常に危険と隣り合わせという意識からきているのかもしれない。

 少し話は現在に飛ぶが、これを書いている2022年によく聞く言葉「私たち日本人は相手のことを考えて行動するから⋯⋯」。これも現実が見れていない、もしくは現実から逃げている人たちと、政府からの圧力なのか知らないが、利益のことしか考えられないメディアが作り上げているだけの話で、言い方は悪いが洗脳である。日本は政府が強制力を持って対応できないので、今回に限らずいつでも同調圧力を利用してきた。その結果、思考停止になる国民をたくさん作ってしまったのではないか。その始まりは少なくとも先の戦争にまで遡るだろう。実際は、日本だろうが欧米だろうが相手のことを考えて行動している。その内容や価値観に違いはあれど、特段、日本が優れているわけではない。欧米がしてきたようなロックダウンを永遠と続けていかない限り、いくら日本人が優等生だとしても新型コロナウイルスはなくならないのだ。

 それならばどちらが良いだろう。ずっと同調圧力に苛まれながら何年も自分を殺して生きるのか。メリハリをつけて少しでも人生を楽しむのか。人はいつかは死ぬ。その原因は新型コロナウイルスだけではない。何度も言うが、感染対策を考えて行動することは、バカンスだろうが普段の生活だろうが今は当然であり、そんなことをいちいち議論している場合ではない。それは子供でもわかる話で、そんなことばかりを多くの国民が見るメディアが必要以上に続けているから子供の心まで歪めることになる。日本人が本当に優等生ならば、その先にあるもっと大切なことを議論しなくてはならない。人は苦しいだけでは生きていけない。フランスは私が滞在していた2か月の間に3度もテロがあった。そのひとつは教師が斬首された事件である。あまりにも残酷な報道が毎日流れている。死がすぐそばにあることを意識できるようになると人は変わる。死を忘れてはいけない。だからこそ、人は今を生きなくてはならないのだ。