連載『マイ・コビッド・ナインティーン』は、欧州と日本での引っ越し生活を第二の人生のライフワークとする私が、これまでに体験してきたコロナ禍での暮らしと、その暮らしを中断せざるを得ない現状、そして復活させるまでの日々を綴るエッセイです。
日本に到着した私を待っていたのは、とても静かな関西国際空港だった。到着ロビーから通路を歩いていくと椅子が並べられていて、そこで職員の指示を受けながら、まずはいくつかの書類に健康状態や隔離先の住所、機内での座席番号など必要事項を記入していく。職員が通常の業務時と同じように顔を近づけてくるので、私は万が一のことを考えて距離をとった。その後のPCR検査では、防護服を着た職員にスワブと呼ばれる細い綿棒のようなものを鼻の奥に入れられて喉の粘液を採取。この鼻咽頭ぬぐいの検査は、思っていた以上に痛かった。
この頃の日本は、検査結果が出るまでに時間がかかっていたので、その後は入国審査と税関を経て指定された待機ホテルへ。移動のためのバスは窓も椅子もビニールで覆われていて、犯罪者にでもなった気分であった。すごく疑問だったのが、自家用車で家族が迎えにきてくれるなど、公共交通機関を使わずに隔離先まで移動可能な人は、検査の結果を待たずに帰宅できることだった。私はレンタカーを予約していたが、万が一陽性だった場合、レンタカー会社や水や食料を確保するために立ち寄るコンビニの店員などに感染を広めることになる。正直、その選択肢があること自体私には理解できなかったので、もちろん、検査の結果が出るまで待機させてもらえるホテルを選んだ。
それにしても、関西国際空港を選んだことは正解であった。私が帰国した5月中旬は帰国ラッシュのピークを超えていたので、いっときの成田空港のようなどこに感染者が潜んでいるかもわからない密集した一室の、しかも段ボールベッドに使い回しの布団を敷いて寝させられるという、わざわざ感染しに帰国するかのような状況は皆無で、空港や機内で長時間待機させられることなく事が運んだ。PCR検査を受けてからの待ち時間は、待機ホテルに移動するため多少はあったものの、それでも日本に到着してからホテルの部屋に入るまで約3時間と、割とスムーズであったように思う。検査結果が出るのが翌日以降だったため、その後の14日間の隔離先とレンタカーの予約日時を変更しなくてはならなかったが、どちらも臨機応変に対応してくれた。
関西国際空港では、ホテル日航が検査の待機場所として用意されていた。部屋は広く大きな窓があり、しかもその窓は少し開けることができた。滑走路を目の前に望む抜けた空間、そして夕日の美しい光景がそこにはあり、これは私にとって本当にラッキーであった。待機中について触れておくと、感染対策のため部屋の鍵は渡されない。廊下には各部屋ごとに椅子が並べられており、食事の時間になるとインターホンが鳴る。職員がその場を離れるまでの間少し時間を置いて、椅子の上に置かれた弁当を取る。食べ終わったら必ず封をして椅子の下に置いておくなど、いくつかの決まり事があった。1日3食提供してくれるお弁当は毎回冷めた揚げ物弁当で、野菜ジュースやヨーグルト、味噌汁なども私のときはついていなかった。
検査の結果は、ホテルの部屋に備え付けられた電話にかかってくる。イタリアでのロックダウン生活を考えると陰性である可能性の方が高いのだが、それでもやっぱりドキドキした。翌日の昼頃に無事、陰性の知らせを受けた後は、レンタカー会社に連絡を入れてホテルを出る。エントランスでは隔離先までの移動手段について再度確認があった。それにしても、久々の運転に阪神高速はハードであった。街に近づくにつれて渋滞はひどくなり、その三車線の狭間を意味不明な運転でくぐり抜けていく暴走車がいる。私の脳はアドレナリンが出まくりで、絶叫マシーンでも体験しているかのようだった。
疲れ果てたのか意外にも楽しめたのかよくわからない状態だったが、唯一日本らしくないこの大阪の空気に触れ、テンションだけは上がり、これからの日本での生活に少しだけ希望をもたらしてくれたことだけは確かである。そして、ホテル日航での快適な待機期間が一晩あったことに心から感謝した。イタリアからオランダを経由し、日本に到着して検査を受け、判断能力が下がっている頭でこの阪神高速を運転しなくてはならなかったと想定すると、考えただけでも恐ろしい。しかも私は、免許を取得してすぐにこの引っ越し生活を始めたので、私生活での運転経験がほとんどないまま、いきなり阪神高速だったのである。
なんとか無事、高速道路を降りて大阪市内へと辿り着いたものの、今度はナビに登録されていない一通道路に悩まされ、やっとのことで車を返却し、アパートメントについた頃にはヘトヘトであった。マスクなどの感染対策をして近くのスーパーに食料を買いに行くことは許されていたので、5日間分ほどの食料をまとめ買いしに出かけたのだが、イタリアでのロックダウン生活に慣れていた私は、人数制限など何の対策も施されていないスーパーにものすごい恐ろしさを覚えた。しかも、混雑する時間帯を避けたにも関わらず人が多い。私は見えないウイルスを避けるかのように、人と人の間をすり抜けることに必死だった。まさにゲームの世界に入り込んだかのような、はじめての感覚を味わった。
予約したアパートメントは快適で、私は今ある仕事に打ち込んだ。とはいっても新型コロナウイルスの影響は私の仕事にもすでに出ていて、実家に帰ることのできない私は今後の不安を隠せなかった。14日間の隔離期間中は、厚生労働省から健康状態を確認するためのメッセージがLINEアプリに毎日届く。熱はないかなどのちょっとした質問に答えるだけなので意味があるのかはわからないが、ちょっとした抑止力にはなるだろう。約2か月に渡っての厳しいロックダウンを経験した後にまた隔離となると、どのくらい耐えられるのか心配だったが、多少の苦痛を感じたくらいで何とかやり過ごすことができた。ホテルではなくアパートメントを借りたこと、そして、大阪という土地がそうさせたのかもしれない。
大阪、京都、兵庫の緊急事態宣言がこの隔離中に解除されたことで、隔離期間が終わった後に動けることも今後の希望となった。私はこの隔離が終わった後に京都へと移ることにした。緊急事態宣言が解除されたからといって、すぐに全国を動き回るわけにはいかないし、でも心を開放してあげないと精神がもたない。京都であれば大阪からすぐだし、街の至る所にお寺があって、朝の早い時間帯には人混みを避けて自分を開放してあげることができる。中心部から少し離れた場所に、手頃な価格で小さな一軒家を借りられたことも追い風となり、京都では思っていた以上に素晴らしい時間を過ごすことができた。
観光客のほとんどいない、インバウンドの影響が何ひとつない京都というのは、それはそれは美しかった。私はあえて金閣寺や銀閣寺にも足を運んだ。これらは中学校の修学旅行以来である。そして、金閣寺には夕暮れどきに伺ったこともあり、まさかの独り占め状態であった。それ以外にも、三千院などいくつかのお寺で数時間に渡って自分だけの時間を過ごすことができた。こんな経験をここ京都で味わえるだなんて誰が想像しただろう。ただただお庭を眺めながら、無になって身体を浄化することができる。思う存分、英気を養うことができるのである。
さらには、京都で暮らす人々にも変化が見られた。昨今の京都というのは、どう見てもインバウンドの波に疲れていた。でも今は街ものんびりしていて、本来の京都がもつ良きプライドをそこかしろに感じることができる。市内を走るバスに乗るだけでもそれは伝わってきた。その背筋が伸びる姿は京都でしか感じることのできない感覚で、それは同じ日本人として誇らしく思うほどであった。世界中探してもここにしかない京都ならではのプライド。この地で商売を営む人たちがそれに気づいているかはわからない。でもこのプライドがずっと続いたならば、インバウンドが程よく戻ったときにさらに価値あるものへと変化するのではないかと思った。
私は幼い頃に京都に住んでいたので、今回はそのエリアにも足を運んでみた。父と母が滋賀で暮らす親戚を訪ねたときに一度立ち寄ったことがあり、まだその時は暮らしていた建物が残っていたようだが、そこからすでに十何年の月日が流れている。桂離宮の近くであったこと、アパートメントの近くに古墳があったこと、地名の一部以外は住所も何も覚えていないとのことで、どうやら両親は勘だけを頼りに辿り着いたようである。しかも私は彼らと違って一切の記憶も残っていない。にもかかわらず、私はその勘だけでアパートを探し当てることができたのである。かなり古くなってはいたがまだ健在で、姉が通っていた幼稚園も近くにあった古墳も見つけることができた。私にとって大きな変化が生まれようとしていた。