連載『マイ・コビッド・ナインティーン』は、欧州と日本での引っ越し生活を第二の人生のライフワークとする私が、これまでに体験してきたコロナ禍での暮らしと、その暮らしを中断せざるを得ない現状、そして復活させるまでの日々を綴るエッセイです。
世界は変わってしまった。イタリアのロックダウンから2週間が過ぎる頃には、イギリスやアメリカでも外出制限の措置がとられるようになった。アメリカは州によって異なるものの、本土から遠く離れた島・ハワイでもロックダウン。各国でビザの発給が停止され、すでに発給済みのビザの効力さえも失われていく。オーストラリアもニュージーランドもカナダもロシアも外国人の入国禁止。インドもシンガポールも台湾も、アラブ首長国連邦も、ほとんどの国が鎖国状態なのである。
EUを離脱して間もないイギリスのジョンソン首相は、最初こそロックダウンに懐疑的で独自路線を歩んでいたものの方針を変更。アメリカの対策は万全だと語っていたトランプ大統領も、経済の再開を早くも口にしてはいるものの、ここは素直にロックダウン。アメリカの感染者数はあっという間に4万人を超え、中国、イタリアに次いで3番目という数値になってしまったのだ。イタリアでは毎日700人前後の人が亡くなっているというのに、未だピークには達していないと考えられており、3月26日には感染者数が8万人を超え、死者も8,165人になった。
そんな世界をよそに驚くべきことが、日本で新型コロナウイルスの感染拡大が抑えられていることであろう。武漢でのウイルス発生により帰国した日本人や、ダイヤモンドプリンセス号での船内感染により、初期の段階でこそ危険国のレッテルを貼られていた日本だが、その後は感染が拡大することなく、なんと今や花見を楽しんでいるのである。例年より控えめとはいえ、代々木公園や上野公園では3月20〜22日の3連休に多くの花見客が宴を囲み、マスクを外して喋り続けていた。この光景を近くで暮らす友人から知らされたときの欧州とのギャップたるや、なかなかの衝撃であった。
この日本の状況は、AFP通信をはじめとする海外メディアでも報道されたが、それ以外にも日本を含む世界各国から届く情報をここイタリアから見ていると、なんだか今がいつの時代なのか。いろいろな国がいろいろな時代にそれぞれタイムスリップしているんじゃないかというような錯覚が私の中で起きるようになった。欧米は世界大戦の時代に、日本はなんだか平安時代のような華やかさで、アフリカやアジアの一部の国だけが現代を生きている気がしてならない。メディアを追いかけすぎてしまったせいで、私の脳はとうとうやられてしまったのだろうか。通常の状態ではなくクルクルしていることだけは確かである。
きっとここからだろう。日本に暮らす人々と日本以外で暮らす人々、特に欧米で暮らす人々との間に誤解が生じ始めたのは。お花見というワードそのものが、のん気かつ陽気なイメージを強調してしまうというのもあるだろう。欧米を中心に世界がこんなことになっているというのに、日本政府にとって大切な協議はコロナウイルスよりも東京オリンピック2020。連休明けの3月24日にようやく延期が決定したものの、こんなことを欧米で暮らす誰が想像できたことだろう。平和であることはよいこと。ただ、満開の桜の下で宴を楽しむ人々の姿は、ロックダウン下で暮らす人間から見ると平和すぎるのである。
お花見を楽しむことも、3連休に多くの人が旅行を楽しんだことも、感染状況が抑えられている日本なので何も悪いことではない。医療体制が貧弱な地域へ遊びにいくのは無知としか言いようがないが、楽しみにしていた大学の卒業旅行を海外から国内に変えた人もいることだろう。しかし、このように花見を謳歌しながらも、日本の感染者数が少ないのは誰に言われることなくきちんとマスクを装着して自粛し、いつも清潔に過ごせる優等生だからと訳のわからぬ主張ばかりしている人はどうかと思う。そりゃ外国で暮らす日本人の多くが、今後の展開を忠告したくなるのも無理はない。
武漢で新型コロナウイルスが発生して、全世界がほぼ同じ条件だった1月〜2月下旬までに、日本人がインフルエンザではなく新型コロナウイルスを懸念してほぼ全員がマスクをし、満員電車にも乗らず、飲食店にも行かない生活をしていたのならそれを言う権利は存分にあるが、実際はどうだろうか。世界中がなんとなく気にしながら普段と同じ生活を送っていたように、もちろん日本も例外ではなかった。しかも日本の人口は、イギリスやフランス、イタリアに比べて2倍もの数。東京都市圏に関していえば世界トップである。そんななか、いつもどおり満員電車で通勤し、マスクなしで食べて飲んで話してという状況。出張や旅行による地方との行き来も、今までどおり頻繁に行われていた。
日本人は清潔だとよく言われるが、東京をはじめとする都会の一人暮らしの部屋がどこも清潔とは言い難い。酒に酔って帰ってきて、風呂に入らず眠る人も相当数いることだろう。公共の場は綺麗でも、ホームパーティーの文化がない日本の家は、欧州に比べて掃除が行き届いていない。これは一人暮らしに限らず、田舎の一般家庭でもそうだ。それに土足文化でない日本は地べた生活で、床に直接、物が置かれているケースも多い。それはイコール、外に出たときの服からウイルスが撒き散らされて床にある物に付着し、それを当たり前に手に取っているということ。逆に土足文化の国では、椅子生活なので床にあまり物を置かないし、イタリアに関してはモップがけなども頻繁に行われている。
クレジットカードの普及率も欧州は高いので、ウイルスの付着した現金をお釣りで貰う人も日本よりは少ない。日本ではどの店舗にも消毒液が置いてあってというが、そんなの欧州じゃ当たり前である。それどころか消毒しているかのチェックまで店側が監視していて、忘れようものなら檄が飛んでくる。逆に日本では、消毒液をし忘れたところで誰かに注意されることはない。今では周辺を見る限りマスク率も100パーセントで、ロックダウンになってからのイタリアはこんなにも仕事ができたのかと思うくらいテキパキと働き、よくもまあこんなに変わるものだというくらい規則を守って生活していた。つまりは、過去に欧州で暮らしていた人の話も、今回はあまりあてにならないということである。
私はその国の政府はその国の国民を映し出す鏡だと思っている。世界が同じ状況に置かれて、各国の代表が新型コロナウイルスという共通した題材をもとに会見しているので、その国の色というのがどんどん表立ってきているが、どの国の代表にも共通して言えることは、皆、自国民の平均的な性格をよく理解しているということである。政府はそんな国民を見ながら、出来るだけ都合のいいように政策を進める。麻生大臣がのちに、日本の民度は高いから発言をされていたが、この発言は裏を返してみれば、他国のロックダウンよりも強い日本の同調圧力を利用し、それを民度の高さにすり替えて伝えたということである。しかし、国民が政府のやることを簡単に許さない国ではそう単純に事は進まない。ロックダウンが必要な欧米がその例である。
日本がこれといった制限なくいつもどおりの生活を続けているあいだ、欧米はロックダウンで、イタリアはスーパーに行くのでさえ一人でなければならなかった。とにかく制限だらけだったのだ。感染が拡大する前はマスクをせず、ハグやビズが当たり前の日常であったことは間違いない。この間に広まったウイルスが潜伏期間を経て今という意見も理解できる。とはいえ、ロックダウン下での生活になってから2週間経っても3週間経っても、感染者数は一向に減らないのである。私はなにも欧米の肩を持っているのではない。何が言いたいのかというと、どの国も同じ=つまりフェアなのである。にもかかわらず、日本人は日本を客観的に見れている人がどうも少ないように感じる。
東京で長年暮らし、海外の人々とも普段から交流のある夜遊びの場を何年も提供してきた私からすれば、日本に関して有利だったのはハグやビズをしないこと。手で食べるパン文化ではなく箸で食べる米文化であること。それだけである。何ならハグやビズに関しても、東京の飲食店の狭さと密集度、換気の悪さを考えれば、そこで唾液を飛ばしながら、顔を近づけて長時間話していることと何も変わらない。日本人は優等生だという発言をよくメディアで見かけるが、そのような発言をされている人は、日本の昼の顔しか知らない、夜遊びをまったくしてこなかった人間、またはメディアからの圧力なのかなと私は感じた。
もちろん、夜遊びをしている人間が悪いのではない。少なくとも私が接してきた人たちはみな真っ当だし、夜遊びの場があるのは世界共通でごく普通のことであって、日本を含むどの国も1月〜2月下旬までの段階で自粛などしていなかった。さらにこれは日本特有であるが、日本人は仕事のストレスからなのか昼と夜の顔がまったく違う。しかも、いわゆる一般社会に勤めているサラリーマンほど羽目を外す。つまりは、昼間の優等生だけ見ていても、日本の本当の顔は見えてこないのである。先に述べた麻生大臣の発言の真意と同じで、ただ右に倣えしているだけの人間を優等生という言葉で片付けているだけで、日本人が他国より優等生だという発言自体、本来はおかしいのである。
そして、私はこの頃から日本が新しい世界についていけなくなるのではないかと危惧するようになった。コロナの感染者数を抑えられていることはとても喜ばしいことだけど、それはそれで大変だと思うようになった。日本はG7加盟国でもあるのだが、ただでさえ男女平等やITの普及、環境問題への意識など、さまざまなことが世界から遅れをとっている。だからこそ新型コロナウイルスはチャンスでもあった。あーだこーだと足を引っ張る年老いた政治家などの意見をねじ伏せるのにこんなに適した機会はなかった。しかし、日本は平時ではあり得ないチャンスが訪れたというのに、前に進んでいくスピードは何も変わらなかった。
私はこのような観点から、欧米と日本の感染者数や死者数の差は、遺伝子など別のところにあるとしか考えられなかったので、日本が欧米のような事態になるとはあまり考えなかった。そうなるなら環境的にとっくになっているだろうと思っていた。それもあって、イタリアで大変な状況を経験しながらも、日本に対して欧州の状況を押し付けたことは一度もない。そして当時、私が頻繁に連絡をとっていた友人は冷静に世界を見れる人でもあったので、新型コロナウイルスが落ち着いて社会が復活する頃には、日本と世界の間にさらにギャップが生まれて、日本と欧米各国は経済面や価値観で雲泥の差が生じると思うなど、最初は互いの意見を冷静に話すことができていた。
しかし、それは長くは続かなかった。日本と欧州の感染状況が違うので致し方ないと、最初は私も目を瞑っていたのだが、どんどん見過ごせないようになった。私が滞在するイタリアの状況が酷すぎて、温度差がありすぎるというのも一つの要因だが、武漢から欧州に伝わった第二のウイルスによって日本の感染者数が増え始めてからも、日本がのほほん状態だったこと。これに尽きるだろう。もちろん、危機感を持って行動している人たちがいることはわかっている。ただ日本はイタリアと同じ高齢化社会でもあるので、もっと考える必要があった。結局、人間は当事者にならないと何もわからない。東日本大震災の津波でたくさんの人が亡くなった経験も活かされない。想像すらできないのだ。
欧州が日本など比にもならないくらい早い対応をしたことなど知ろうともせず、ロックダウンになってから数週間経っても、マスクがどうとか、ハグやビズがどうとか、衛生面がどうとかばかり言い続けている。こんなの大したことないのにという意見まで聞こえてくる。武漢から直接入ってきた波とは違う波が襲ってきているというのに、検査数で本当の数字をあぶり出そうともせず、欧米の批判ばかりして、自分たちは優等生だと言い続けている。私の友人がそう発言したわけではないが、それでも温度差があり、特定の人と日々やり取りすることに無理が生じるようになった。しかもこの友人は元パートナーでもあったので、慣れから適度な距離感をとることが難しくなった。それ以外にもズレが生じ始め、私は当時のように精神が乱れるようになってしまったのだ。
この友人とは今も距離を置いたままだが、この間に交わしたメッセージのやり取りの中には、今も考えさせられる言葉がたくさんある。私はそのやり取りの中で、新型コロナウイルスによる犠牲が大きければ大きい国ほど、その後の世界には美しさが増えると伝えている。それだけ死を身近に感じるイタリアにいたからこそ出てきた言葉だったのだろう。そして、当時ニューノーマルという言葉が流行ったように、あっという間に世界の価値観が変わるだろう。だがこの凄まじい状況を経験できていない国は、そのまま足を引っ張り合うことになるだろう。世界との価値観のズレにより、後からついていくことさえ困難になるだろう。すでに相手に優しくなれない人が増えている日本。これは、新型コロナウイルスによる犠牲よりも怖いと思った。これがあの頃に感じていた私の意見だった。