新型コロナウイルスの最初のロックダウンをイタリアで過ごしているとき
連帯という言葉をよく見聞きした
その時、協調とも違うこの言葉の意味について
よく考えるようになった
連帯というのはそもそも、一人ひとりの意志がないと成立しない
それぞれが主体性をもって取り組むからこそ連帯の精神へと結びつく
それは、協調においてもいえること
協調も個々の意見があるからこそ、互いのことを考えてその先へとつながる
日本が協調性のある国から同調圧力に苛まれる国に変わったのはいつだろう
そして、いつからその同調圧力を協調性と置き換えるようになってしまったのだろう
自分の頭で考えることができなくなって、不安だから相手に合わせるようになって、そこで同調圧力という言葉が世に広がると、今度は自分たちを守るように同調から協調に置き換え、挙げ句の果てにその指摘さえも受け入れられなくなっている
どうにかして自分を正当化したいのだろう
そもそも自分で意思決定できる人なら、そういう思考にはならないはずだ
アメリカ同時多発テロから今日で21年
あの事件当時、ニューヨークの連帯感は相当に強かったと聞く
ますます生きづらくなっていく日本に不安の念を抱きながら
今日はそんなことを考えた