連載『マイ・コビッド・ナインティーン』は、欧州と日本での引っ越し生活を第二の人生のライフワークとする私が、これまでに体験してきたコロナ禍での暮らしと、その暮らしを中断せざるを得ない現状、そして復活させるまでの日々を綴るエッセイです。

 2020年11月中旬、シェンゲンビザの期限がきて、私はまた帰国することになった。今回はブルガリアであれば入国できる可能性はあったが、ブルガリアは海外旅行保険が義務化されており、国の医療体制の問題から、欧州連合での緊急医療や緊急入院、遺体搬送などをカバーするものでなくてはならない。これはブルガリアに限らず、欧州であればチェコやハンガリーなどいくつかの国が該当するが、実際に確認されることは地続きなのでそうあることではない。だが今は新型コロナウイルスによる規制強化が加わり、万が一のこともあるのでこの辺は抜かりなく準備しておきたい。

 新型コロナウイルス以前であれば、90日を超えて海外に滞在する場合も、それに対応したクレジットカードの海外旅行保険をいくつか組み合わせて対応すれば問題なかったのだが、今回は新型コロナウイルスという厄介な案件をもカバーしている保険でなくてはならない。これは日本人の私にとってリスクが大きい。さらにブルガリアは近隣国への移送も考慮しなくてはならないので、もしもの場合を考えたときに彼ら国民に多大な迷惑をかけることになる。それは他国でも同じことなのだが、それを言い出したら何もできないので、今はその国の医療体制を重視して考えるようにしている。

 当時のブルガリアは、欧州各国のように第二のロックダウンにはなっていなかったが、いくつか規制強化を図っている最中で、集中治療室も埋まってきている状況。この先どうなるのか予想がつかなかった。海外旅行保険の問題だけでなく、欧州各国の状態を考えると、急に規則が変わって空港で足止めされる可能性も無きにしも非ず。私の場合は、日本からの入国ではなく欧州に3か月滞在した後の入国なので、定められたルールが適用されるのかは空港の職員の判断に委ねられる。ブルガリアは物価も安く、アパートメントも比較的安く借りられるので今の私には助かるのだが、今回は実家とのやり取りから受け入れてもらえるとのことだったので、ぎりぎりまで悩んだあげく日本に帰国することを選んだ。

 だけどそれは全くの期待はずれに終わった。東京での隔離期間中に、やっぱり帰ってこないでという内容のメッセージが飛び込んできたのだ。海外での取材や経験をもとに仕事を得ていた私は、今回の新型コロナウイルスで最も影響を受けた職業の一つだった。新型コロナウイルスがこの世を襲う約一年前に今の仕事へと移行し、ゼロからのスタートでまだまだ挑戦の段階。少しずつ経験を積み実績が増えてきた矢先の今で、ただでさえ売上は少なかった。サブ的な仕事にも影響が出ており、これ以上毎月マイナスになり続けるのは、以前であれば何とかなるが今はどうしようもない。それに精神の限界からこの生活に移行したため、またゼロからのやり直しは考えられなかった。

 私は文章を書くことを続けたかった。正直、こんなに割に合わない大変な仕事というのもそうないとは思うのだが、それでも書くことは続けたかった。その為には一度実家のお世話になるしか今は方法がない。だけどそれは前述したメッセージが示すように、私にとって試練でしかなかった。私はこの移動生活を始めるにあたって、ほとんどの荷物を売却または処分したのだが、最低限の荷物は実家に置かせてもらっている。事務所の所在地も東京からその県へと移し、今の生活を続けてきたのだが、実はその荷物のお願いをする事でさえ何度躊躇してきたかわからない。私は実家との相性が非常に悪いのである。

 その主な要因は、自分の身体や精神の異常からある事実を認めなくてはならなかった中学生の頃にまで遡る。当時は今とは違って、あらゆる不調を自律神経失調症で片付けられる時代だった。この頃の私の家庭は崩壊していて、それもいわゆるDVとか離婚とかわかりやすいものではなく、少しずつ少しずつ住まいを蝕んでいくシロアリのようで、それは何年も前から始まっていて、でも私はどうしても認めたくなくて、そのあらゆることが限界に達して爆発したのがその頃であった。私の家庭は普通ではない。ありとあらゆることが我慢の連続だった。

 その最も大きな要因となるのが、共に暮らしていた父方の祖父母による私への攻撃だった。私には姉と妹が一人ずついるが、何か問題が起きるとすべて私のせいにされた。その案件に私が関わっていなくても存在を否定された。学校から帰ってきて挨拶すると怪訝な顔で無視され、同じ食卓に着くと席を立たれる。もしくはその場の雰囲気が荒れる。私が一体何をしたというのだろう。何度も何度も言い争いになった。特に祖母とは相容れなかった。彼女は「あなたが小さい時に発した言葉を一生忘れない」とか「きちがい」の一点張りで、それが何なのか母に聞いてもわからなかった。

 毎日が何でどうして? の連続だった。答えの返ってこない疑問ほど辛いものはない。私には幼稚園の頃からそういう傾向があった。皆が強制されること、特にお昼寝に関してはなぜ必要なのか少しも理解できず、眠れないので先生を困らせた。上半身裸になってプールに入ることにもすごく抵抗があった。そういった疑問が、祖父母の私に対する言動に向けられるようになってからは訳がわからなくなった。確かに私は家庭の中で一人だけ浮いていた。この世に生を受ける時にも相当に抵抗してなかなか出てこなかったようで、母は大変だったらしい。もしも前世があるのなら、私は今後の未来をすでに予測していたのかもしれない。

 だからいつも不信感を抱きながら過ごしていた。父に祖父母のことを相談しても何も取り合ってもらえず、私は父に対しても不信感を抱くようになった。「娘がこんなに辛い思いをしているのに、どうして自分の両親に一言も注意してくれないのだろう」。私はさまざまなことからやる気を失っていった。大好きだったピアノも勉強も、すべて放棄したのはこの時期である。そもそも祖父は、私がピアノを弾くことを気にいらなかった。「あなたに買ったものではない」。そう言われたことがある。このピアノは祖父が姉のために買ったものだったからだ。その姉は数年でピアノを辞めてしまった。私はピアノが好きで長年続けてきたけれど、いつも我慢してきたそれらの言動には限界だった。

 誰もが父と父方の祖父母に気を遣わなくてはならなかった。姉や妹が私のように攻撃を受けることはなかったけれど、やはり一般家庭のようにはいかないことにストレスを感じていたのだろう。彼女たちも自律神経失調症と判断を受けた。私は医者にも不信感を抱くようになった。こんなにも皆が違うのに、なぜ皆が皆、自律神経失調症なのか。今考えてみれば、自律神経失調症にも症状はいろいろとあるので皆がそうだったのだと思う。でもその頃は、今よりも嫌な病気のイメージだった。私の中では精神科とつながっていたからだ。

 日本の地方における精神科には選択肢がない。今でこそ病院の在り方も少しずつ変化しているようだが、それでも自分に合った精神科医に巡り合えることなど奇跡である。あれはいつだったか。認知症とアルコール依存症を併発するようになった祖父は、精神病院で縛られるようになった。自分が限界に達するまで世話をした結果、これ以上は無理だと判断して病院に預けた母だったが、まさかそんな場所だったとは思わず、その理不尽なやり方に耐えられず、母は祖父を病院から引き戻してまた自分で世話をするようになった。この頃の祖母は、度重なる病気に対して必要以上の薬を処方されいつも体調が悪かった。父はすべてを母に任せっきりで、自分の両親や家庭のことに関わろうとはしなかった。

 私はますます医者に対して不信感を抱くようになった。自分の自律神経失調症さえも認めなくなった。私は絶対にこの手の症状で精神科医にだけはお世話にならない。そう決めた瞬間だった。この気持ちは今でも続いていて、そのせいで恐ろしく苦しめられた長い歳月も存在するのだが、それでもこの気持ちが変わることはなかった。頑なに変えることができなくなってしまったと言った方が正解である。そして当時の私は、何を思ったのか悩みのない自分を演じるようになった。これは幼稚園の頃からずっとと言えばそうなのだが、きっとこの理不尽な世界で懸命に頑張っている母を、少しでも安心させたかったのだと思う。私だけはまともでいよう。そんな風に自分に言い聞かせるようになった。

 今、書いていることの時系列があっているのかは自信がない。なぜなら私はこの記憶を一度消していた期間がある。すべてではないにしろ気づかぬうちに。とにかくあの頃はめちゃくちゃだった。思春期でもあった私には、誰も知らない場所に作られた牢獄のように感じられた。妹は登校拒否で引きこもり、姉も奇妙なおとなしさだった。私だけはまともでいなくては。すごく辛いはずなのにいつも笑顔を絶やさなかった。祖父母や父との言い争いが絶えることはなかったが、夜ご飯も時間をずらして一人で食べるようになった。私一人我慢すれば、少しは穏やかな時間が増える。

 今となって考えてみれば、常々何かに対して相反する気持ちを抱いてしまう私の思想は、この頃に植え付けられたものだったのだと自覚する。この相反する感情は、恨みに恨んだ祖父母にも、父にも、あらゆることに懸命だった母に対しても抱いているので、それはとても苦しい感情なのだけど、同時にまた、このアンビバレントな感情があったからこそ、この後の試練に立ち向かい、何とか乗り越えることができたのだと今は思っている。そして、このアンビバレントな感情があったからこそ、今の私も私自身も存在するのではないかと思う。次回はその試練の日々について少しだけ触れておこうと思う。